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わたしの映画日記(2022年3月19日〜25日)

3/19 土曜日

『リバー・オブ・グラス』 ケリー・ライカート 1994年 アメリカ(U-NEXT)

幼い子供との感情的なつながりを感じない主婦とフラフラしている男がバーで出会う。二人は酒を飲んだ後にプール付きの民家に不法侵入する。そこで銃を発砲してしまったことから逃亡生活が始まる。互いに恋愛感情のかけらもない男女のモーテル暮らし。軽微な犯罪で小銭を稼ぎながら宿代を支払う。次第に銃の本来の持ち主が二人の存在に気づき始める。気怠いロードムービーにどんな幕引きが待っているのか。どん詰まりの日常を突き破る”逃亡劇”という非日常。ごく僅かな金が足りずに逃げることすらかなわない。Uターンして来た道を戻るラスト数分で観客を殴ってくるエンディングだった。

『大人は判ってくれない』 フランソワ・トリュフォー 1959年 フランス(The Criterion Channel)

授業中にふざけてばかりで先生から目の敵にされている少年が主人公。家に帰れば両親の口論が尽きない。ある日学校をサボって相棒と街に繰り出しさんざん遊び歩く。その道中、母親が知らない男とキスしているのを目撃してしまう。何事もなかったかのように振る舞いやり過ごす。翌日、先生に無断欠席の理由を「母親が死んだ」と嘘をついたことがバレてしまい、両親の少年に対する視線が厳しくなる。家出や盗みが続けた結果、両親は愛想を尽かし警察に少年を突き出す。

現代の視点から見ると「ちょっと先生が厳しすぎないか?」と思ってしまうが、当時のやんちゃ坊主を手懐けるためにはそれだけの厳しさが必要だったのかもしれない。あどけない少年ジャン・ピエール・レオの演技が素晴らしいのはもちろんのこと、この物語がトリュフォー自身の経験に基づいていることも見逃せない。これだけの悪ガキでも後にフランスを代表する映画監督になれるとは。時代がおおらかだったのか、本人自身の運なのか。映画全体に印象的なショットが散りばめられていて、どこを切り取ってもポストカードになるような作品だった。

『ヒッチコック/トリュフォー 』 ケント・ジョーンズ 2015年 アメリカ(U-NEXT)

世界中の映画に関わる人々、映画ファンにとってのバイブル『映画術 ヒッチコック/トリュフォー』が世に出されるためには二人の映画監督が対面し、言葉を交わす必要があった。貴重なインタビュー音源や当時の写真、10人の映画監督によるコメントを交えながらヒッチコックの映画術に迫る。トリュフォーからの「全仕事について教えてほしい」という依頼にヒッチコックは喜んで応じる。同時通訳者、カメラマンも加わり対談は食事中にも続いていく。すべてを視覚的に捉え、スクリーンを観る観客の目を持って映画に取り組むヒッチコック。コップに入った牛乳を際立たせるために、その中に豆電球を仕込んだこともあったという。あの頭の中が一体どうなっているのか不思議でならない。

晩年のヒッチコックは自身のスタイルに疑問を感じ、トリュフォーにアドバイスを求めていたようだ。観客の求める映画、当たる映画の傾向が変わっていくうちに、偉大な巨匠の作品は”いま劇場で観る映画”から”振り返るための映画”へと変質していったのかもしれない。どれだけ過去作を教科書的に評価されたとしても、最新作が当たらないのはクリエイターとして辛い。年老いたヒッチコックの苦悩を考えるといたたまれない。そしてトリュフォー享年52歳に絶句…


3/20 日曜日

『マルサの女』 伊丹十三 1987年 日本(The Criterion Channel)

ラブホテル経営で暴利を貪る実業家と、税務署の女性調査官(物語の中盤で国税局査察部に栄転)の対決を描く。高圧的な男性社会に立ち向かう勇敢な宮本信子。彼女の鋭い観察力と粘り強さが脱税の計略を暴いていく。税務署時代に目をつけた実業家への内偵シーンはさながらスパイ映画のよう。サスペンス、ミステリー、エロティシズム、友情。娯楽映画の全要素が2時間に凝縮されているといっても過言ではない。隠し財産を探すシーンで実業家(山崎努)と査察官(津川雅彦)が繰り広げる心理戦も見応えがある。

山崎努が指を切って血文字を描くクライマックスからエンドロールにかけて、画面全体が夕日で染まっていく。血と夕日が連動していることには気がづかなかった。脱税者とマルサの女の友情が、立場を超えて何か血のかよったものであることを表現したかったのだろうか。その場を後にする山崎努の荒々しい足取りも含めて印象的な幕引きだった。

『くもりのち晴れ』 片山享 2021年 日本(シネモンドにて上映)

高校時代の駅伝大会でたすきを繋げなかった青年が、卒業後に建設会社で働き始める。同期は朝から下世話な話題で盛り上がるが輪に加わろうとしない。彼の沈む表情を両親・上司・同僚が心配する。見るに見かねた同期がなんとか励まそうと試みるが逆に口論になってしまう。現場での失敗も重なりメンタルはどん底。この状態が続けば間違いなく退職に至るか、その前に大事故を起こすか。ギリギリまで追い込まれた青年がいかにして挽回していくか。温かな周囲の人々の支えにより建設業に大切なことをつかんでいく。

主演は『佐々木、イン、マイマイン』の細川岳。今年公開の金沢を舞台にした『きみは愛せ』では知り合った女性に片っ端から手を出す軽い男を演じている。本作では仕事に悩み自分の殻にこもる青年を好演している。特に印象に残ったのは小道具としての石膏ボードの存在感だ。建設現場で新米社員たちが石膏ボードを担いで階段を上るシーン。もしや何か大変なことが起こるのでは?と予想していたら案の定”事件”が起きてしまう。この”事件”の重大さが絶妙だった。生死に関わるほどではないが、やってしまうとかなりヘコむ。建設業に関わらず第二次産業で働いた経験があれば誰にでも身に覚えがあるはずだ。救いなのはこの物語の舞台となっている会社の職場環境が限りなくホワイトなところだろう。悩む主人公騒がしい飲み会やホモソーシャルな関係性で絡め取ることなく、あくまでも仕事の中でしっかり成長させる。学生が社会で経験する挫折に備えるのにピッタリな作品だった。


3/21 月曜日

『六欲天(Summer of Changsha)』 祖峰 2019年 中国(MUBI)

恋人を自死で失った刑事が主人公。それ以来抑うつ症状に苦しんでいる。川で発見された”男性の腕”の持ち主を調べているうちに、失踪した弟の情報を呼びかけるネットの書き込みを見つける。発信者は女性医師。奇妙なことに弟が既に死んでいることを夢で知ったと語る。面会を重ねるうちに彼女はかつて自分の娘を炎天下の車内に放置して死なせてしまったと知る。抑うつ症状と闘う刑事と子供を死なせてしまった女性医師の恋愛一歩手前の関係を描く。

前半は死体遺棄事件の捜査がメイン。中盤からはどのように辛い過去を受容するのかがテーマになっていく。監督・主演を務めた祖峰はうつ病患者にスポットを当てたかったようだが、フィルム・ノワール感との食い合わせが悪い。唯一好みだったのは相棒の刑事が中国東北訛りの独特の巻き舌発音、かつアイスを食べながら歩く感じがとてもよかった。

3/22 火曜日

『Love Meetings』 ピエル・パオロ・パゾリーニ 1964年 イタリア(MUBI)

1960年代のイタリアでパゾリーニが道行く人々にマイクを向ける。冒頭赤ちゃんはどこから生まれるか知ってる?という子供たちへの問いかけから始まる。「コウノトリが運んできた」「布団の中」「おじさんが連れてきた」などなど可愛らしい答えが続く。しかし大人への質問はストレートだ。同性愛・セックスワーク・男女平等・離婚の自由などを質問する。非常に保守的な考えを答える人もいれば、当時としては実にリベラルな考えの持ち主もいる。人それぞれと言ってしまえばそれまでなのだが、カトリックが主流の国で公に「性」にまつわる質問をすること自体がタブーに切り込んでいるとも言える。そう考えるとカトリックの価値観から脱皮し始めた時代の雰囲気を記録した貴重なドキュメンタリーなのかもしれない。映像の中で何度も登場する「自主規制」というテロップと共に音声が消されるシーンに笑ってしまった。パゾリーニといえども世に出せないと判断したのだろう。逆に完全版が気になる。もしかしたらどこかに存在していたりして。

3/23 水曜日

『I've Heard the Mermaids Singing』 パトリシア・ロゼマ 1987年 カナダ(MUBI)

主人公のポリーは休みの日はカメラを持って写真を撮るのが趣味。しかしこの趣味が一癖も二癖もある。森の中でいちゃつくカップルを追いかけて遠目から盗撮している。もちろん風景写真なども撮っているのだが変人なのは間違いない。そんな彼女が一時雇用として雇われたのが物語の舞台となるアートギャラリーだ。フランス訛りの英語を話すスタイリッシュな女性キュレーターが雇い主。ポリーは憧れの眼差しで彼女を見ている。しかしキュレーターと親しくなるにつれて彼女の秘密を知るようになる。若い同性の恋人や人目につかないように隠されたアート作品。二面性に触れることで関係性が変化していく。

プロットだけを見ているとヘビーだが、不思議なユーモアある演出で口当たりがとにかく軽い。ポリーを演じるシーラ・マッカーシーの憎めないキュートさも加わり絶妙なテイストに仕上がっている。MUBIのレビューに”ハーフ・ レズビアン・ソープオペラ”と書き込んでいるユーザーがいた。当人は酷評のつもりで書いているようだが、かなり的を射た表現だろう。完全に英語を理解できるか日本語字幕で観ると印象が変わりそうな作品だと思う。

3/25 金曜日

『The Girl in the Armchair』 アリス・ギィ=ブラシェ 1912年 フランス(The Criterion Channel)

良家の青年が家に帰ると父親に一枚の手紙を渡される。親友が亡くなりその娘と多額の財産の後見人として父が専任されていた。「その娘を結婚相手にどうだ」というのだ。しかし彼は申し出を断る。

その後青年はカード賭博で500ドルの借金を抱える。ユダヤ人の金貸しは1週間後を返済期日と命じる。しかし返済の目処が立たないまま期日が来てしまう。当日、金貸しは青年の家に押しかけて返済を迫る。その場にあった父親の金庫に目を付けた金貸しは、青年に父親の金に手を付けるようにけしかける。根負けをした青年は金庫から金を盗む。

青年と金貸しのやり取りを椅子の上で聞いていた娘が一計を案じる。良心の呵責に苛まれ改心した青年は、娘の魅力に気づき二人は夫婦となる。

あまりにも男に都合の良い物語であることは否めない。しかし狭い空間うまく使ってドラマチックな展開を生み出している。俳優たちの豊かな表情も目を引く。アリス・ギィの才能あふれるサイレント映画だった。

番外編

3月21日。インターネット・アーカイブのツイートが目に留まった。

マーティン・スコセッシ映画財団によると、1950年以前に作られたアメリカ映画の半分が失われ、大手配給会社はどこも探していないそうです。さらに悪いことに、1929年以前に作られた映画の90%以上が永久に失われたと言っています。

https://twitter.com/internetarchive/status/1505575766993485825?s=20&t=reAxXJ463TRSRxJn2eB_FA

文化は常に記録・保管・保全していかないとあっという間に失われる。配信が主流の時代に入ると、この流れはますます加速していく気がする。

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