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#42 何もしてない感を払拭したい(230623)

どうも。6月があと1週間で終わってしまうことに驚きを隠せません。
また、茶黒いやつらに苦しめられる季節が始まってしまうのですね…。

それにしてもやべえです。このままだと何もせずに6月が終わり何もせずに2023年後半に突入し何もせずに40代50代を迎え何もせずに死んでゆくことになります。やべえです。

それなのに好きじゃないこと(仕事と直接的に言わないところが大人だよね)をして過ごしている時間は永遠のように長く感じる不思議。なんなん?


最近、やるべきことや、やると決めたことがなかなか手につかないなあと感じております。自分の思うように取り組めていないという、もやっとした実感があります。取り組んでいないのも自分自身なんですけどね。

「やらなきゃなあ」と思っている時点で義務感が生じてしまっているため、その取り組みはもう成功しない、望むような結果は得られない、という見方もあるいはあるかもしれません。

ですが、一度やると決めたことに対しては、義務感が芽生えようと虚無感の花が咲こうと、最後までやり遂げたいと思うものです。
親愛なるYUKIが言うところの「言葉には責任を持つ」っていうやつです。敬称は敢えて略。

noteのおしゃクそ日記やCanvaのビジュアル大喜利も「自分でやると決めたこと」という点ではたしかにそうなのですが、その中核にあるものではないんですよね。かと言って、周縁部のどうでもいい取り組みというわけでもないんですけれどもね。

週単位、月単位、あるいは年単位で設定した目標のうち、自分が最も重きを置いている事柄に、(量的にも質的にも)満足に向き合えていないなあと感じている今日この頃なわけです。まあ、今に始まったことではありませんが。


ここで時間の制約やら全体のバランスやらを鑑みると、noteやCanvaに触れている時間を減らす、具体的には毎日投稿をやめる、という一つの考えが過ぎるのですが、僕としてはそれもしたくないんですよね。

たしかに、比較的容易に充足感を得られるnoteに傾倒しがち、依存しがちになっているところは正直あると思います。

noteは一人で黙々と取り組む内省や勉強その他インプット作業と違い、他者の反応が数字で可視化されている上、大きなタイムラグがないので、コンビニみたいな中毒性がありますよね。
別に用はないけど気付いたら立ち寄ってアイス買ってた、みたいな。承認欲求を満たせるコンビニですねnoteは。

あのー、ほら、承認欲求はコンビニでも満たせるけどもう少し探そうよ、ってスピッツも歌ってるじゃないですか。歌ってませんでしたっけ?

コンビニにしか行かないのはさすがに問題があるとは思いますが、コンビニも今じゃ必要不可欠なわけじゃないですか。
それにnoteに傾倒、依存しがちとネガティブな表現を用いましたが、何もネガティブなことだけではないと思うんですよね。

noteを継続した先に得るものがあるかどうかは分かりませんが、何かを得られる可能性があるのだとしたら、今ここでnote断ちをしてしまうのはもったいないような気がします。

それに、自分がメインで取り組みたいこと(以下、甲)に取り組めない理由を、note(以下、乙)になすりつけて、一方では、乙を継続する中で目の当たりにするであろう変化(記事の質の低下、ビュー数・スキ数に見られる他者からの反応の鈍化)から逃げることの正統性を、甲を見出しているように思えてならないんですよね。
自分の中で、やらない理由・逃げる理由を相互に求めているような気がして、なんか気に食わないんすよ。

仕事や人間関係で健康を害するほどに嫌な状況だったらもちろんそれは逃げるべきなんですけど、僕の場合は自ら進んで始めたことなんでね、それはちょっとねェ世間は許してくれませんよォ。


となると、noteでおしゃクそ日記を継続しつつ、Canvaもできる範囲で続けつつ、甲にもしっかり取り組んでいくしか道はないということになりますね。やるしかないというわけです。もはや何兎を追っているのか分かりません。

読者の皆さんには、僕があれこれと苦しんでいる姿、醜態を晒している様をも楽しんでいただければと思います。
というわけで、以上うんこみたいな葛藤の記録でした。



ZAZEN BOYS 『暗黒屋』

(向井秀徳氏をただの繰り返される諸行無常おじさんだと思っている人にこそ観ていただきたい。)


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