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おしゃクそ日記【不純な動機で書くエッセイ】

これまで、習慣らしい習慣を持ってこなかった。

強いて挙げるなら、毎朝起床直後に、パンツ一丁になって体重計に乗ることと、家計簿を1円単位で記録することと、お風呂で音楽を聴くことくらいだ。挙げてみたら意外とあった。

僕は昔から、一つのことをコツコツと継続することが苦手だった。
夏休みの宿題然り、試験勉強・受験勉強然り、読書、筋トレ、ストレッチ然りだ。
不定期的に一念発起して、無謀な計画を立てては、見事に玉砕してきた。


毎日コツコツと地道に積み重ねていける人は、全ての分野において最強だと思う。

僕はそういう人に対して尊敬の念を抱くと同時に、自分もそういう人間になりたいと思ってきた。常々思ってきた。
しかし、わずかに熱しやすく非常に冷めやすい僕にとっては、それは到底及び得ない領域だった。


そんな僕が、noteへの投稿を習慣にしようと決めたのは、今から2ヵ月ほど前、5月上旬のことになる。
お喋りみたいなクオリティの、そこまで面白くもない日記(通称おしゃクそ日記)と称して、可能な限り毎日、書きたいことを最低限度の体裁を整えて投稿することにしたのだ。もちろん、思いついたのは正式名称よりも通称名が先だ。

習慣と言ってもまだ2ヵ月も経っていないが、今のところは続いている。
コツコツの才能がない自分にとって、これは前代未聞の大進歩だ。


日記を書くことは、思考の整理、総合的な文章力の向上に繋がると思っている。また、記録資料としての役割を果たしてくれるものと考えてもいる。

以前から日記を習慣にしたいと思っていたが、自分一人の力ではどうしても続かなかった。
だから、SNSの介した人々の力を拝借してでも、どうにかして日記を継続してやろうと思ったのがきっかけだった。

おしゃクそ日記と題してはいても、人に読まれる(可能性がある)以上、ある程度の形になっている方が好ましい、むしろそうあるべきだ、という意識が、常に頭の片隅に居座っている。
この緩やかな制約が、適度な脳のトレーニングになっているように思う。


おしゃクそ日記を習慣としたことで、今現在の自分の思考を、立ち止まって吟味する機会が増えた。
それを言葉にしようと試みることで、自分の思考(に近いと思われるもの)が自分自身から切り離され、形となって可視化されることで、いくらか客観的に、自分の頭の中を観察できるようになった。

また、あれこれと記憶を探る機会が増えた。日常に埋もれていて思い出すことのなかった記憶を、いくつか思い出すこともできた。

1日をただ漠然と過ごすことが減っていったような気もする。明確な意識を伴っている時間が増えたような気もする。

note(ここは「おしゃクそ日記」としたいが、あえてnoteとしておく)が習慣になったことで、1日の質が、noteに取り組んでいる時間だけ高められた。
さらにその時間に引っ張られるようにして、記事を書いていない時間も、有意義に過ごそうと思えるようになった。

時間の過ごし方のギアが、自分の中で一段階上がったような感じがする。

1日が積み重なって1週間、1ヵ月、1年となる。1年が80回くらい積み重なると、人の一生になる。
その1日の過ごし方を有意義なものにしようと思い至れたことは、すなわち自分の命の使い方を有意義にしようとすることと同義で、よい「命との向き合い方」を体現しつつある、ということだったりもしないだろうか。

もしこれが真なら、習慣ってすごい、おしゃクそ日記はなんて偉大なんだ、ということになる。
全てのおしゃクそ日記に光あれ。


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