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掌編小説 | にじいろ、オルゴール



「ちょっと、スマホ見て?もうこれ何回目?」

扉が開いた瞬間、私のおかえりを掻き消すように玄関から彼の怒った声がする。私のスマホはまったく音が鳴らないので、よくこういうことが起こってしまう。彼に注意されたのはこれで何度目のことだろうか。彼がいちばんそう思っているのだろう。でも、ただいま、くらい言えばいいのに。なんて言ったらまた怒られるだろうから、私は一旦口をつぐんでみる。

「あーー、……ごめんね。集中してた。」

キッチンでガサガサと鳴るスーパーの袋。そういやレジ袋はもうすぐ有料になるんだっけか。口から出る謝罪の言葉とは裏腹に、私の脳内はまったく別のことを考えている。

「集中は分かるけど。薬味まだあったか聞きたかったんだよ、もう買ってきたけどさ。あっ、やっぱり茗荷あるじゃん、なんだよ。」

今夜の晩ご飯はどうやら素麺のようだ。梅雨の晴れ間とかやらで部屋にいても暑かったし、食欲もあんまりだったし、うれしい。それにしてもよく喋るひとだ。薬味なんて2つあってもいいだろう。どうせ、夏の間は素麺ばかりなんだから。
冷蔵庫を空けて買ってきたものをしまっている彼の背中を眺めながら、しばし逡巡する。……あぁ、口をつぐんでいて良かった。思っていても直接言わなくていい言葉は、口に出さないに越したことはない。

「茗荷、いっぱいあった方が美味しいよね。今日暑くて食欲沸かなかったから、素麺とか食べたいなって思ってたの。うれしい、ありがとう。」

一仕事終えたらしいタイミングを見計らって、そう声をかけた。

「俺、先にシャワー浴びるから。それくらいでキリよくなる?上がったら晩飯にしよう。」

その言葉で、彼がすっかり満足していることが分かった。思っていて、かつ直接言ったほうが喜ぶであろう言葉は、きちんと口に出すべきだ。
はぁい、と答えて仕事を再開する。お前は本当に子どもみたいな返事をするな、と笑われる返事。けれど、彼はそれが気に入っているということも知っている、私の狡猾な返事。

・・・


バスルームから、シャワーの音がする。わしゃわしゃと頭を洗う彼の姿を想像する。オレンジの香りを振りまきながら、あと15分くらいで出てくるだろう。私の使っているシャンプーは俺には甘すぎるよ、と言って一緒に選んだ香り。それは爽やかな彼に実際とても似合っている。
そういえば怒られたんだった、と思ってふとスマホを見ると、LINEが2件、その後に着信が1件。すべて彼からだった。

「茗荷ってまだある?」「寝てる?仕事中?」

ハテナ、ハテナ、ハテナ。よく喋るだけじゃなく質問の多いひとだ。茗荷はまだあったし、寝てなかったし、仕事中だったよ。心の中で今更そう答えてみる。彼には届いていなかったけれど。

彼は、とても濃やかで親切なひとだ。私には自分がいないと駄目だと思われている。それでいい。私はただ有難く、そのやさしさを享受できるほうがいい。与えるよりも与えられたい。手を引かれて、方向を決められて、はぁいと返事をして後ろをついてゆくだけでいい。
一体いつからこんな風に思うようになったのだろう。しっかり者、ちゃんとしてる、そう言われて育ってきたはずなのに。母が今の私を見ると驚くのだろうか。けれど仕方がないことだ。月日はひとを変えてゆく。いとも簡単に、そして残酷に。

携帯が鳴らなくなったあの日から、私は時間をかけてすこしずつ無くなっていってしまったのだ。それは、まるでひっくり返した砂時計のように。さらさらと音もなく、けれど目を離していると確実に消えてゆく、あのこまかい粒子のように。


・・・


かつて、恐ろしく深く、ひとを好きになったことがあった。何もかもが現実のものとは思えないほどに、すべてが眩しくすべてが潤いに満ちて、そしてほんのひとさじだけ嘘みたいに儚かった。

もう15年も前のことだ。生キャラメルが流行って、イナバウアーを真似していた、あの頃。
二つ折りの白い携帯電話を持って、ミッキーのストラップをじゃらりとつけていた、あの頃。

『つながっているからね、愛してるからね。』
今でもソラで歌える当時流行りだったその曲は、MDのお気に入りリストのいちばん上にあった。
毎日のように聴きながら、これは私の歌だ、私たちの歌だ。そう思っていた。そう信じていた。


子どもの「両思い」から、すこしだけ大人の「付き合っている」にステータスが変わったはじめてのひとだった。そのふたつの差分はよく分からないけれど、いざ「付き合ってみる」と全然違う感じがした。気恥ずかしくて、照れ臭くて、そしてなんだか誇らしかった。少女漫画の世界に負けず劣らず、自分が前よりもかわいく思えた。

そのひとは、学生の私とは違ってすでに働いているひとだった。4つ年上の、高卒で社会人2年目。今思うと笑ってしまうほどまだまだ若い男の子なのだけれど、あの時の私には世界をすべて知っているほどの大人に見えていた。そしてそのひとにとってあの時の私は、驚くほど子どもに見えていたのだろうということも、後から自分が歳を重ねるに連れて分かってしまったことだった。


・・・


「転勤になったんだ。明後日引っ越す。」

ある日突然、そのひとは言った。私が暮らす街からは、400kmくらい離れたところだという。400kmって、何kmなんだろう。あまりに突然の知らせと想像もできないほどの距離に、馬鹿みたいなことしか浮かばなかった。

「会いに、行ってもいい?」

だからもう終わりにしよう、そう言われたくなくて先手を打った。ぼうっとした頭でもそれだけは言えた。涙は、まだ出なかった。

「俺も帰ってくるから。またすぐ会えるよ。」

良かった、と思った。すぐってどのくらい?400kmよりも近い? いつ? 次はいつ会える?
聴きたいことは山ほどあったけれど、何も言えなかった。涙が、止まらなかった。


・・・


すぐ、が3ヶ月も先のことになるのを知らない私たちは笑って別れた後、そこから毎朝毎晩欠かさずメールを送り合った。

「おはよう」「おはよう」
「学校終わったよ」「仕事終わったよ」
「おやすみ」「おやすみ」

4日に1回くらいは、電話がかかってきた。仕事が終わるタイミングが分からない私からはかけることができず、ただひたすらに待つばかりだった。

『つながっているからね、愛してるからね。』
いつもの曲が耳元で一緒に、その長い長い時間を過ごしてくれた。さみしいことが、愛しいということだった。だからさみしくてよかった。今日も好きだ、と思えた。呪いのように、そう思っていた。


二つ折りの白い携帯電話には、真ん中にちいさな液晶画面がついていた。四文字くらいの名前が表示できる画面と、設定したとおりに色が変わるライトがあった。家族は赤、女の子はピンク、男の子は水色、アルバイト先は黄色。私は律儀にアドレス帳を設定した。

そのひとは、虹色だった。
とくべつな色、いちばん心が躍る色。決して派手ではない柔らかなやさしい虹色は、雨あがりの澄んだ空気みたいなそのひとそのものだった。

電話の音も、そのひとだけ他とは違う着信音にしていた。私がだいすきな曲の、オルゴール。歌詞が言葉で分かると恥ずかしいけれど、オルゴールなら自分にしか聴こえない。いつも頭の中で流れているその音色を聴くと、一音目で携帯を開けることができた。あれから一度も耳にしていないその曲は、甘くせつない歌詞のいい歌だった。


・・・


離れて1年とすこしが経った頃、私たちは上手くいかなくなってきていた。何ヶ月かおきには会っていたけれど、それでも会いたい気持ちが募りすぎて、なのになかなか上手く会えなくて、お互いに疲弊してきていることは分かっていた。

切り出したのは、そのひとからだった。
400km離れた距離で繰り広げられる別れ話はどこまでも遠い出来事のようで、まるで自分の身に降りかかっていることだとは思えないほどだった。好きだからつらくて離れる、という選択肢があることをはじめて知った。これが「両思い」と「付き合う」の差分なのかと思った。
身体がばらばらに千切れてしまうくらい、さみしかった。最後の最後まで、さみしいはどこまでも愛しいということのままだった。


その晩、私は携帯電話の設定をすべて消した。
光も、音も、不要だった。そのひとからの連絡がもう二度と来ないのであれば、赤でもピンクでも、誰からの連絡も同じことだった。虹色が見れなくなった。オルゴールが鳴らなくなった。そのことだけが、たったひとつの真実だった。

私にはそのひとがいないと駄目だった。持てる限りのすべてを与え続けたかった。手を繋いで、隣に立って、並んで歩いて生きてゆきたかった。


それはかつて、恐ろしく深く、だれよりも好きになったひとだった。


・・・


ーー水音が止まったことに気がついて、ふと我に帰る。手にはスマホがきつく握られていて熱を帯びていた。何かの代わりに、つよく握りしめていたような何故かそんな気がした。
向こうでバスルームの扉が開いた。もうすぐオレンジの香りがやってくる。濃やかで親切な、私の手を引いて導いてくれるひと。


「終わった? 素麺どのくらい食べれる? 何把?」

ハテナ、ハテナ、ハテナ。相変わらず、質問はいつだってすこし多いけれど。

「終わったよ。どのくらいかなぁ。ふたりで4把じゃ多いかな?」

今度はしっかり声に出して答えた。正確には終わっていなかったけれど、直接言わなくていい言葉は口に出さないに越したことはないのだ。

「うん、食べられるでしょ。茗荷もいっぱいあることだし?」

やっぱりあの香りは、その爽やかな笑顔にとてもよく似合っている。彼の、怒りを引きずらないところが好きだ。仕事を気遣ってくれるところも、料理をつくってくれるところも、私には自分がいないと駄目だと思っているところも。ちゃんと、彼が好きだ。眩しさはないけれどきちんと現実を感じるし、ひとさじの儚さもここにはない。それでいい。私は、砂時計を逆さまにして大人になったのだ。もう二度と、ひっくり返すことはない。

「私、買ってきてくれた薬味切るよ。いっぱい切る。なんか急にお腹減ってきちゃった。」

すっかり熱くなってしまったスマホを置いて、キッチンへ向かう。気を付けろよ、手切るなよ、と心配そうな声が早速飛んでくる。はぁい、と返事をして包丁を握る。さっきまでスマホを握っていたその手は、まだすこし熱を帯びている。




包丁がまな板を叩く音の遠く遠く離れた向こう、頭の中でいつものオルゴールが聴こえている。

「その歌、ほんとよく口ずさんでるよな。」

「好きなの。 すっごく、好きなの。」


私のスマホが鳴ることはない。
これからもう二度と、鳴らすことはない。


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