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子供を望んだことがないと気づいた女の話

私は、今年30になる。
これまでの人生、何度も「いつか結婚して、出産して家庭を築くんだろうな」という漠然としたいわゆる”普通”の将来像にハマって人生が進んでいくのだと思って、そうなるルートを選んでいたように思う。

2年前、28歳の5月に自分がアセクシュアルであることを自認してから、その将来像にはどんどんと靄がかかり、今ではほぼ白紙に戻っている。
アセクシュアルというのは、端的に言ってしまえば「他者に性的に惹かれを感じない人」のこと指す。セクシュアルマイノリティを指す用語の一つだ。

それまでも、なんとなく違和感を覚えていたことはたくさんあった。
例えば、付き合ったとたんに距離感が近くなる恋人への違和感。
恋人が手をつないで喜んでいるのを気持ち悪く感じたこと。
恋人が時折見せるとろけたように目じりの垂れたまなざしへの嫌悪感。
セックスをしたいと一度も思えなかったこと。

自認したことで、居場所のなかったこれらの感情は、自分のアイデンティティの一部としてすんなりと居場所を獲得した。

そして最近、自分が子供が欲しいと思ったことがなかったことに、ある会話をきっかけに気づいたので、今日はそのことを書きたい。

子供を持つことに対するこれまでの考え方

自認する前も、自認してからも、子供に関しては、授かるためのすべての工程(セックス、妊娠、出産)がどれも嫌だという感覚はあった。
だから積極的に望むことはなかったけれど、それは工程が嫌なだけであって、子供を育てるということ=自分の生活に子供という存在を入れること、を望んでいるのか、望んでいないのかはよくわからなかった。

パートナーができて、子供の話になったら、優先順位としては養子縁組や里親を検討して、どうしても自分の子供をとなったら、その時に真剣に自分にできることなのかを考えようと考えていた。

きっかけは障がいを持った子供の親についての話

私の身近なところに、”章がい”を抱えた子供を育てている親が2組いる。
そして、そのどちらからも、子供の障がいを認め切れていないんだなと思える言動を感じていた。
自分の子供に障がいがあるということが、親にとってどれくらい受け入れ難いものなのか、考えてみたけれど、どこにピントを合わせて考えたら良いのか全く分からなかったので、人に聞いてみた。
「そんなに受け入れ難いものなのかな」と。
「そうだと思う」という答えが返ってきた。
発達障害や知的障害は、小学校入学前後にわかってくることが多く、それまで普通だと思っていたのに違った、ということがまず受け入れにくいものであると。
認められずに、支援級を進められても普通級を選択する親が多いのだとか。子供の人生に与える親のエゴの大きさを感じる情報だった。
また、生まれながらに障がいがあると分かっていた場合でも、いつか普通に暮らせる日が来るという可能性にすがっている姿を私も目にしたこともある。

「受け入れ難いことだ」と聞いても、やっぱりどれくらい受け入れ難いのか、その程度の大きさや感情のベクトルが想像できなかったので、なぜできないんだろうと考えた。
もちろん障害のある子供の世話は通常より大変だと思う。でも、それが理由じゃない気がした。

逆算的な発見

多くの親は、元気で健康に生まれてきて欲しい、育ってほしいと願っている。その理想像が叶わなかった、その挫折感(この言葉が正しいのかわからないが)から目を背けているのではないか、という結論にたどり着いた。

その時に、元気で健康な子供が生まれてほしいという気持ちも、よく耳にする、目にするから発想できただけで、感覚的にはピンと来ていない自分に気づいて、「ああ、私は子供を欲しいと思ったことがないんだな」という、新たな自分を発見するに至った。

今まで、子供を持つまでの過程が嫌だから、子供の有無はそんなに重要視していなかったけれど、こんな方向から気づくことがあるのか、と自分でも驚いたし、子供を欲しいと思ったことのない自分を少し好きだと思った。

今回このことに気づけたのだから、結婚も、出産もせずに、一生一人暮らしを楽しめる人生を堂々と考えていこうと思う。

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