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時間の経過とともに生まれた「空っぽのプライド」を捨てて、書き散らかしたい

去年の12月、『ブログを書かなきゃ』と思うような流れがやってきた。…だけど、書くことができなかった。

その頃、「完璧主義を手放せ」的なアドバイスをしてくれた人がいて…、『その言葉が正しい』とわかっていても、受け入れることのできない自分がいた。
…というより、『わたしが悩んでるのは、そこじゃない』『書けない理由は、それじゃない』という感覚が強かった。
だけど、そこにいた別の人も、ものすごくうなずいていて…、それを見てたら、うまく伝えることができなくなった。
彼に理解してもらえていないことが、すごく悲しかった。

どうして、1年近くがたった今、この話を書いてるかというと…、自分の中で引っかかってたものに気づいたからだと思う。

それは、「自分が動けなくなってしまうような、くだらないプライドは捨てろ」ってこと。


ちなみに…、
私には完璧主義なところもあると思う。
だけど、あの時に『違う』と思ったのは、私自身が『完璧』とは思い難いような文章を、すでにたくさん公開していたからだと思う。
そして、そのめちゃくちゃに書き散らかした文章がいろんな人に読まれている…という状況もあったから。

そりゃ、『1番大切なモノは、もっと完成度を高めたい』と思う気持ちもあった。
だけど、書けない理由がそれじゃないことは、自分でもわかってた。
…というより、心に響くどころか、その瞬間、ものすごく冷静で、理解されない悲しみを感じてる自分がいたんだと思う。

文章にすることで「失敗・悪いこと」になってしまうのは嫌だった。恥をかくことは、恐かった。

昨日書いたnoteを読んでいて、思った。
『あぁ、この、くだらないプライドを捨てる時が来たんだな~』って。

【『あれもこれも』と書ける力がないから、1つに絞らなきゃいけない…は、思い込みかもなって。】


私はずっと、失敗することが恐かった。
間違いを指摘されることも恐かった。
何より、恥をかくことが、恐かった。


わたしはきっと、失敗すること自体が恐かったわけでも、間違いを指摘されること自体が恐かったわけでもない。

だって私は、セラピストして自信を持っていた頃も、たくさんの失敗をしていたし、間違えてしまうことも、それを指摘されることもあった。


間違いを指摘された時のことを思い出すと…、やっぱり、間違いを指摘されるのは、嫌だった。間違いを指摘されるのは、恐かった。
だけど、間違いを指摘されて、それに対して「恥」を感じることで、『いやだ』という感情が生まれてた。

たぶんわたしは、間違いを指摘されること自体ではなく、間違いを指摘された時に感じる「恥」が嫌で、「恥を感じること」を恐れていたんだと思う。


失敗は…、まぁ、失敗しなくて済むのなら、失敗しない方がいい。
だけど、セラピスト時代も、それ以外でも、私はたくさんの失敗を繰り返してきた。
『あぁ、違った』『間違えた』『やっちゃった…』みたいな体験がたくさんあって、それでも目指したいもの・探究したいものがあったから、進んできたんだと思う。

だけどそれは基本的に、自分の内側とか、自分自身の問題だった。

私の失敗を受け入れてくれる友人の前では「恥」を感じることもないし、失敗を恐れる必要もなかった。
だけど、私の失敗を『悪い所』『直さなきゃい』『見つけたぞ~♪』みたいな感じで指摘してくる人の前では、すごくイヤな気持ちになった。
自分がすごく小さくなっていくのを感じた。


私にとっては、失敗すること・間違えることは当たり前で、悪いことじゃない。
ただ、その失敗や間違いから何かを学んで成長していけばいいだけだし、そこにある自分に気づいていけばいいだけなんだと思ってる。

だからね、文章を書くときも、「ダメな自分」をさらけ出すことにも、抵抗はなかった。
なかったんだけどさ…、私の書いた文章を読んでくれる人たちがみんな、そういう考え方をしてるわけじゃないんだよね。
中には、「失敗や間違いを指摘する。謝らせる。自分が直させてあげる。教えてあげてるんだ。」みたいなところで、自分の中の何かを満たしたい人もいるんだなって感じた。

…なんというか、1年前に書いた文章には、「今のわたし」じゃなくて「1年前の私」がいる。書き直さずにいるのにも、わたしなりの理由があったりする。
なのに、「今のわたし」にあの頃の間違いを謝らせようとしたり、『私が、こんなに寛大な心教えてあげてるのよ』みたいなニュアンスのことを言われても…、何かが違うなって思った。(「寛大な心で…」みたいなのは、当時、実際にメールで書いてあった…)

なんというか、その時の私は、「過去の私」が間違えたということより、傷ついて偏った考え方をしてるってわかってるうえで、『同じようなことに傷ついたり、悩んだりしてる人もいるから』と思って、そのままにしてた。
傷ついて偏った考え方をしてしまった「過去の自分」のことも受け入れてるから、そこに嫌悪感を感じていなくて、『そういう考え方もあるよね』『そういう時もあるよね』みたいな感覚だったりする。
だからまぁ、それでいいのかなって。

だけどさ、「過去の自分」とか「(当時の)失敗」を自分では受け入れたところで、他者が同じようにそれを受け入れてくれるとは限らない。
そして、その「他者の反応」というのに、恥を感じたり、シュンとしたりして、エネルギーが奪われていくんだなって思う。


こうやって書いてみると、『もう過去のことで、自分の中で整理がついてる』と思ってたのに、まだ、感情が残ってたんだな~って感じる。

あのね、自分の体験・考えを文章にしてたくさんの人に読まれることで、自分の中では「悪いことじゃなかったもの」「成功への道のりの1つ」だったものが、「悪いこと」や「恥を感じるもの」にされてしまう。
そういうのが、すごくイヤだった。

だから、自分の内側をさらけ出す文章ほど、『読んでほしい』という気持ち以上に、『あまり読まれたくない』という気持ちになっていたんだと思う。
そして、それが『書けない』につながってたんだなって。


どんなに成功してる人だって、人生の全てが成功だけで、幸せだけで成り立ってるわけじゃないでしょ?
きっと、いくつもの失敗があったり、悩んだり考えたり…、いろんなことがあって、そのうえで成功してる。
そして、他者に見せてるのが、他者に見えてるのが、その成功の部分なんだと思う。
(人生の全てが成功・幸せだけで成り立ってて、悩んだり考えたりしたことないよって人がいたら、ごめんなさいね)


セラピストだった頃の私も、それ以前の私も、「能天気」「ただラッキーなだけ」「悩みなんてなさそうでいいな~」なんて言われてしまったり。
「やりたいことやってていいな~」「しあわせそうでいいな~」なんて言ってもらえたり。
時には、そのあとに「私なんて…」みたいな話を聴くことになったり…、いろいろあったな~って思う。

だけどさ、
何にも考えてなさそうで、能天気で…、ただのラッキーで生きてる人に見えるのも、
好きなことして、幸せそうに見えてるのも…、全部、わたしの一部でしかないんだよね。
その内側には、めちゃくちゃ葛藤したり、もがいたり、必死になってる自分がいてね。人にはあんまり見せないような側面がたくさんあったのよ。

文章を書くときにね、『今まで人には見せなかった部分も見せよう』と思ったの。『そのまんまの自分をさらけだしたいな~』って。

いい所ばっかじゃなくて、自分のネガティブな側面や失敗も。それとどうやって向き合っているのかも。
いろんなものをさらけ出したいと思った。
そこには、わたしの「伝えたいもの」があると思ったから。

なんだけどさ、そうやってさらけ出そうとしたら、他者からの反応に傷ついてしまう「弱い自分」がいた。
傷ついて、『人前に出るのが恐い』って隠れて震えてる、小さな自分がいた。

それでも私は、表現したくて、『大丈夫、大丈夫』って、自分に言い聞かせて動こうとしてた。
だけど、そんなんじゃ、「他者からの反応に傷ついて、『人前に出るのが恐い』って隠れて震えてた小さな私」は、外に出ることができなかった。
…当たり前だよね。

だから、約1年かけて、その「小さな私」が外に出ても守ることができる、強い自分になろうとしてたんだと思う。


…あ、これは「プライドを捨てる」とは別の話をしてるね。
まぁいいか。笑

時間とともに生まれた小さなプライドを捨てて、書き散らかしたい。

もう1つね、
私にはずっと「叶えたいこと」があったんだけど、失敗を繰り返したり、なかなか行動に移せなかったりして、口だけになってることがあったのよ。

まぁ、それでも私は自分のやりたいことをやっていて、ある程度は『成功してる』『幸せだ』って感じてたから、それでよかったの。

周囲の人たちだって、私のやってることを知っていて、認めてくれてたりもしたし。
…特に、セラピストだった頃は、そうだった。


だけど、「書くこと」をするようになってから、状況は変わってきた。

本当は「書きたいこと」があって、その先に「叶えたいビジョン」があった。
…というより、「叶えたいビジョン」「やりたいこと」があったから、そのために『書こう』と思ってた。

なんだけどさ、ぜんぜん書けなかったし、動けなかった。
書いても書いても、なかなか結果が出なくて、ひとりよがりなんだなって思ってた。
自分の感覚・直感を信じて始めたのに、あまりに結果が出ないから、自分の感覚・直感を信じ続けることができなくて、他者の声に振り回されたりもした。


一時期ね、『とにかく、やってみよう』と思って、あっちこっちに、書き散らかしてた時期があるの。
だけど、全部が中途半端になっただけで、体も心も疲れてしまって、書くこと自体ができなくなってしまったの。

…そんなことを繰り返してたらさ、もう「書くこと」自体が恐くなっちゃってね。
「自分の表現したいことを表現する」「本当に書きたかったことを書く」ということへのハードルが、ものすごく高くなってしまったんだと思う。


だけどさ、
時間がたつにつれて、「自分の表現したかったことを表現する」ための準備期間が、どんどん長くなっていくわけでしょう?

自分の心の中で、書くための準備を整えていたって、それは他者からは見えないし、私自身もよくわからなかったのよ。
でね、ちゃんと思考で構想を練ることができればいいんだけど…、そんなにちゃんと構想を練ることができないの。何年たっても。
ただ、『自分の感覚で書けばいい』『感じるままに書けばいい』みたいな感覚がすごくあってね。
『自分が体験してきたこと、考えてきたこと、今の自分が思うことを書けばいい』って。それだけをずっと思ってるの。

何年も何年も時間をかけたのに、そんなに時間を書けただけの価値のあるものを表現できるかが、自分でもわからないのよ。
なのにさ、『こんなことを表現したい』『こんなことを伝えたい』みたいな思いだけはあって、それを言葉にしてしまうと、誰かが期待してくれたりする。

そこでまた私は、『その期待に応えられるほどのものを書けるの?』って自分を疑って、書けなくなってた。

それはきっと、『こんなに時間を書けたのに、たったそれだけのモノしか買書けないの?』って思われてしまうのが、恐いんだと思う。

それはきっと、『あんなに大きなことを言ってたのに、ぜんぜん表現できてないじゃん。これっぽっち??』って思われてしまうのが、恐いんだと思う。

そうやって、恥をかくことが、恐いんだと思う。
自分を守りたいんだと思う。
自分の、小さな小さなプライドを、守りたいんだと思う。

自分の中にあったくだらないプライドなんて、たくさん捨ててきたつもりだった。
だけどまだ、私の中に、自分を動けなくしてしまう、やりたいことにチャレンジできなくなってしまうような…、そんな小さな小さなプライドが残ってたんだなって。

何年も自分と向き合って、文章を書こうとしてきた。
だけど本当は、それにどれだけの価値があって、自分が今、どれだけのところにいるのかなんて、わからないの。

ただ、文章を書く前の私には言葉にできなかったものを、今のわたしは、言葉にしたり、表現することができるということを知ってる。
それが全てではないことも、これからまだまだ成長していくんだって、その過程だってこともわかってる。
それでも私は、今のわたしを認めて、信じたい。

そして今、『恥をかきたくない』とか『失敗するのを見られたくない』『口だけだと思われたくない』『ダメな人って思われたくない』みたいな、小さな小さなプライドを持ってることに気づいた。

何年も時間がたったことで、中身がスカスカで空っぽのプライドが生まれたことに気づいた。

そんなくだらないプライドは捨てて、動いてみたいな~って思ってる。


数年前までは、あちこっちに書き散らかすことに、抵抗はなかった。
むしろ、「形」がハッキリとわからないから書き散らかしてたわけで…、エネルギーは使うし疲れるけど、楽しかった。

今は、あの頃よりもずっと、「書きたいこと」「伝えたいこと」がハッキリしてきてる。
だから、あちこっちに分散しすぎてしまうことも…、その頃よりは、ずっと少ないと思う。

だったらもう1度、書き散らかしてもいいんじゃないかな~って思う。

今は、そんな気持ち。


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