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逆エンパスっぽさを否定してた自分と、それを受け入れていきたい気持ち。

人をコントロールしたり、自分の世界観に巻き込んでしまうことを恐れていた私は、人前に出ること・自己主張することが恐かった。

セラピストとして活動していく中で、エネルギッシュな逆エンパスっぽい側面を否定して、「ザ・癒し」という感じのエンパスさんを目指してた。

だけど、感覚的におしゃべりしてる時が1番楽しかったし、お客様の身体や心の変化も大きかった。
だから、『もっと話すことを軸にして活動していきたい』と思うようになった。

そして今、文章を書きながら、自分の逆エンパスっぽい側面を否定するのをやめて、前に出していこうとしてるのかもしれないなって思った。
傷つくことを恐れて隠した「本来の自分」を取り戻していこうとしうる感じ。

今日は、そんなnoteだと思う。

人をコントロールしたり、自分の世界観に巻き込んでしまうのが、恐かった。

高校時代、ふとした拍子に、人の心が『わかる』ということに気づいた。
それは、誰かの心を『理解しよう』『感じよう』としてるわけではなく、ただ『わかる』という感覚があって、何人もの人たちを動かしてた。

委員会での作業時、一人一人の目的に対する感情がわかる。
だから、みんなが自らそこに『向かおう』『やってみよう』と自然に思えるように、目標に向けて楽しめる状況・空気感を作った。

ひとりひとりの性格があって、そこでの役割があって…、『動くのがめんどくさい』と思う人もいて…、
だから、その中でどんな空気を作ったら、『めんどくさい』と思ってた人を動かすことができるのか…。
誰が、この状況を盛り上げて引っ張っていくことができるのか…。
どんな提案の仕方をしたら、みんなが楽しみながら、進んで考えて行動していくことができるのか…。

感覚的に、動かしてる自分に気づいた時、ハッとした。

「人の心・考えてることがわかる」ということと、それを使って「人をコントロールしてる」ということをハッキリと自覚した瞬間だった。

当時の私は、それを隠すことにした。
『隠さなきゃいけない』
『気づかれたら、気持ち悪がられてしまう。恐がられてしまう』
『普通でいなきゃ』


振り返ってみたら、「人の心がわかる」という経験も、「人を動かしてる」という経験も、いくつもあったような気がして…。
恐くなって、考えるのをやめた。

それ以降は、「人の心がわかる」ということを気づかれないように、人の相談に乗るときに、相手が受け入れることのできる所まで、日常的な会話の中に紛れ込ませるような形で、その感覚を使ってた。
時には、自分の身体を使って誰かが話してる感覚もあった。
だけど、それさえも、「ごく普通の会話」として日常に潜ませることができる範囲に抑えてた。

「人をコントロールする」ということに関しては…、正確には、すべて自分の思い通りに、人をコントロールしてるわけじゃない。
ただ、人の心や魂の声を聴くことができるから…、その声の方向に導くような流れを作ると、本人は自分の心や魂の声と一致して動いてるって感じなんだと思う。

『この人には、どんな言葉が刺さるのかな?』『この人は、どんな風に感じてるかな?』って考えながら話すし、自分の言葉にしてがどんな反応をするかも見てる。
だから、わたしがどんな言葉をかけたとしても、それを正しいと思っていても、相手が自分自身で「イエス」「これだ」って思わないと動かないことも知ってる。

それはたぶん、人をコントロールすることではないんだと思う。
だけど、私はずっと、人をコントロールしてしまうことが恐かった。

小学生の時、自分の言葉で人が動くのを見た時、すごく楽しかった。
それは、自分の考えを、みんなの前で話すことができたらだと思う。そして、それにっ共感してくれた人たちが動いていくのを見たからだと思う。
…だけど、全員が同じ意見になってディベートできなくなって先生が困ってるのを見た時、罪悪感も感じた。

私はずっと自分の世界を生きていて…、だから、無自覚のところで人を傷つけてしまうこともあった。
それに気づくたび、自分のことを許せなかった。
人をコントロールしようとしてしまう自分が嫌で、それを直そうとしてた。

『楽しい♪』と思うと、自分が主人公になってしまう。
中にはそれに不快感を感じる人もいて…、それに気づくたびに、『また、やっちゃった…』って思って、自分を出さないように隠れる。
子どものころからずっと、そんなことを繰り返してた。
だから私には、明るくて元気だった時期と、大人しくて人と話すことのできない時期が交互にやってきてた。


セラピストになってからも、ずっとそうだった。

ちゃんとお客様の話を聴くのも好きで、特に、相手の感情を共有できるような内容のときは、すごく楽しい。
だから、マッサージするのも大好きだった。
人の身体から感じるストーリーも楽しかったし、心の中で身体と会話する感覚もよかった。
体から感じるものをお客様に伝えることができるのも、すごく嬉しかった。

私のところに来てくれるお客様たちは、私の話を聴いてくれる人たちがたくさんいて…、だから、わたしは楽しくおしゃべりもさせてもらって…、いっぱいいっぱい遊んでもらってるような感覚だった。

…と同時に、私はずっと悩んでた。
他のスタッフはみんな、もっと上手にお客様に質問をして、たくさん話を聴いてあげることができるのに…、私はそれができないから。
みんなみたいに、普通に心地のいい会話をして、ちゃんとお客様に寄り添ってあげたいのに、それができないことにコンプレックスを感じてた。
…だけど、不思議とお客様との心の距離が近いことも多かった。
話し方を変えたくて、学生時代からずっといろんな人に相談するのに…、私が尊敬する人達はみんな、私の話し方を褒めてくれた。
むしろ、「普通とは違っても、他の人にはマネできないものだから、変えない方がいい」といろんな人に言われ続けた。


石垣に来てからも、いろんな人が私の話を聴いてくれる。
『みんな、優しいな~』って。『わたし、迷惑かけてないかな??』っていつも不安になる。
中には、おしゃべりなわたしに「聞き上手」と言ってくれる人もいて、私の考えを聞きたくて『こんど会った時に…』って聞きに来てくれる人もいた。
おしゃべりをした時に気づきがあって、そのおかげでいいことがあったとか、人生が楽しくなったとか…、お礼を言いに来てくれる人たちもいた。

その瞬間瞬間に、感じることを話してる。
その人を見て、感じて…、どんな言葉で伝えるのがいいかを考えて。
彼女たちが、自分を受け入れることができるように、自分のやりたいことをやっていけるように、もっと自信をもって進んでいけるように…、たくさんの言葉をかける。

相手がどんなに喜んでくれても、感謝してくれても…、私の中にはずっと『間違ってない?』『自分の思い通りにコントロールしよとしてない??』と疑う気持ちがある。
だから基本的に、「私はこう考える」とか「本当に、それでいいの?流されてない?」「○○ちゃんは、本当にそう思ってる?」みたいに確認しちゃうし。
相手がやりたいことに進むことを決めた時、もう1度、別の道じゃなくて大丈夫なのか、本当にそれを望んでるのかを確認してたなって。
それは、相手に『自分の心を大切にしてほしい』という思いからでもあるんだけど…、『他者を自分の思い通りにコントロールしてるんじゃないか?』という恐怖からでもある。


私はたぶん、自分と他者の境界線があいまいなところがある。
人の心や魂の声を聴いた時、それが、相手の心やた魂からの声なのか、自分の考えなのかがわからなくなってしまうことがある。
…あとは、『これは、自分ではなく、相手のモノだ』と認識できても、それを押し付けてしまうのも違うような気がしてる。
だから、相手のものを「自分のもの」として伝えることも多々ある。

ちょっと脱線してるかもだけど…、
とにかく、去年石垣に来てからもずっと、私は「自分が話すこと」で相手を巻き込んだり、相手のエネルギーを奪ってしまうことが恐い。
相手を自分の思い通りにコントロールしてしまうことが恐いんだと思う。


感覚的におしゃべりが1番楽しいし、お客様の身体・心の変化も大きかったから、『もっと話すことを軸にしていきたい』と思った。

セラピストだった頃ね、
自分の感覚を使うようになったら、どんどん思考的なマッサージから離れていった。
感覚的にマッサージして、そこで見えたもの、感じたものをベースに、知識を加えてた。
気づけば、マッサージではなく、ヒーリング(エネルギーワーク)になってた。
お客様たちがヒーリングに気づいて、それを求めてくれていても…、私は無自覚で。必死にマッサージしようとしてた。


いつからか、「わたしと話すこと」を大切に思ってるお客様たちがいることに気づいた。
何かに気づくきっかけになったり、ハッとさせられたり…、そういう言葉を話すときがあるんだって。

私にはそんな自覚はなくて…、ただ、マッサージやヒーリングをしながら、その時に思ったことを話してるだけだった。
それでも、『この人に、この言葉は伝えておきたいな』と思う瞬間はあって…、当時の私は、それに価値を感じてくれてるんだと思ってた。
だから、体が伝えてくれるストーリーを言葉にするようになった。


…なんだけどさ、
実は、もう1つ、お客さまたちが楽しんでくれてた話があった。
それは、私自身の不思議な話や、楽しかった話。日常で考えたこと。…そんな、ごく普通の「わたしの話」だった。

子どものころからずっと『自己中だ』と思って、話しすぎないように気を付けてたはずなのに…、仲のいいお客様や、そういう話が好きな人・話しても大丈夫そうな人には、そういう話ばっかりしてた。

お客さまたちはすごく楽しそうにしてくれて、来るたびに続きの話を求めてくれた。
中には、私の体験をマネてくれた人もいたり、『こんな考え方してもいいんだな~』『そんな生き方をしてもいいんだな~』って、わたしの発した言葉が気づき・きっかけになったと言ってくれる人たちもいた。

…そして1番不思議だったのは、そうやって私が楽しくお話ししてたお客様たちは、体や心の調子が整っていく人が多くて、どんどん元気になっていくような感覚があった。
そして、実際に不思議なことが起こり始めたり、転機が訪れたり、夢が叶うような人たちもいた。

『不思議だな~』と思いつつ、『わたしは、目の前にいる人と楽しく話すことをもっとした方がいいんだろうな~』と思った。
「悩みを解決すること」にこだわるんじゃなくて、「私自身が自分らしく生きて、目の前にいる人と楽しくおしゃべりすること」がしたかったんだなって。

感覚的にただ楽しくおしゃべりしてる時が1番楽しくて、お客様の身体や心の変化も大きかったから。
『もっと、話すことをした方がいいな』って、『話すことを軸にしていきたいな』って思ってたの。
(今思い出した。)


「ザ・癒し」なエンパスに憧れて、逆エンパスっぽい側面を否定してた。だけど…。

だけどさ、私はたまに、自分の心の中で戦ってた。

お客様が『わたしのおかげで…』ってしてくれるたび、「それは、私のおかげじゃなくて、お客様自身の力なんですよ」と伝えた。

だってさ、お客様の体も心も人生も、ぜんぶお客様のモノなんだもん。
私はただのセラピストで…、だから、お客様の人生の脇役でいなきゃいけない。ただの黒子でいい。

…そうやって、私は、自分の人生の主役も、他者に譲ってた。

自分が目立つことが、自分が自分の人生の主役になることが、恐かった。
おしゃべりが止まらなくなる自分が、嫌だった。
自分に戻る時間が足りないと、壊れたスピーカーみたいになっちゃう自分が、嫌だった。


たぶん、わたしの母も、スピーカータイプの発信型の人だった。
だから余計に、そのエネルギーに圧倒されて、私はわたしを前に出すことが、表現することができなかったんだろうなって。

家で楽しく笑うとよく、父に「うるさい!」と怒鳴られた。
だから、人の様子をうかがったり、『迷惑にならないように…』と、楽しくなるほどに、周囲を気にする癖がついたのかもしれない。


学校でもずっと、そうだった。
楽しく自分の世界を広げることができると、そこには私に不快感を抱く人がいて、それに気づくたびにシュンとして、目立たないように静かになった。
…それは、両親との関係を投影してたのかもしれない。
だけど、私のエネルギーの性質が影響してるのかもしれないとも思う。


実は昨日、「エンパスと逆エンパスについて」考えてた。

エンパスも逆エンパスも共感力がめちゃくちゃ高いんだけど、エンパスはエネルギー受信型で、逆エンパスはエネルギー発信型。


私が「エンパス」という言葉を知ったのは、セラピストをしてた頃で、『お客様が主役。私は目立たないように…』と思ってた頃だと思う。
逆エンパスの存在も知らなかったから、『自分はエンパスかもしれない』と思った。

6~7年前に付き合ったヒーラーさんに、「敏感すぎる」とか「プラスもマイナスも、スポンジみたいに吸収してしまう」と悪いことみたいに言われてた時があって…。
彼と別れた後、彼の言葉をきっかけに「繊細さん」や「HSP」について知った。『わたしも、HSPっぽいな~』って。
そして、改めて『エンパスなんだろうな~』と思った。

でね、2年位前に「逆エンパス」を知った時、『なんか知ってる感覚だな~』って思った。

たぶん、セラピストだった頃の私には、エンパスっぽい時期と、逆エンパスっぽい時期があった。
…あと、魂のイメージを見てもらったことがあったんだけど…、その時に説明されたのが、「乳白色のミルクみたいな、滋養の泉」だった。
その言葉を聞いた時、わたしにもその泉が見えていて…、『きっと、これなんだな~』って。
その時の泉のイメージが、逆エンパスとリンクする。

…とはいえ、それは逆エンパスっぽさを活かして施術してた時期だから…、自分が本当はエンパスなのか逆エンパスなのかなんて、わからなかった。
エネルギー受信型なのか発信型なのかなんて、わからなかった。

だけど、昨日から薄っすら思ってた。
たぶん私は、エネルギー発信型の逆エンパスなんだろうなって。

だから、自分が人に与えてしまう影響をものすごく気にしたり、コントロールしないようにセーブしようとしてる。自分の発するエネルギーにも過敏になる。
そして、周囲の人を飲み込まないように、迷惑をかけないように、浸食しないように…って、すごく様子をうかがって、あまり痕跡を残さないように、こっそりと生きようとしてたんだなって。

自分が前に出てしまったり、目立つのことが嫌でしょうがなくて…、人を受け入れることのできる「エンパスタイプの人」に憧れてた。
だって、「ザ・癒し」って感じでしょう?

セラピストをしてたら、自分の感覚を活かすことはできたけど…、その代わり、本来の自分を隠して、エンパスのふりをすることになってたんだなって。
…しかも、6~7年前から、私が自分らしく生きることを否定する人たちが増えて、『自分らしさを抑えなきゃ』『人に迷惑をかけないようにしなきゃ』『人に意見を押し付けたり、浸食しないようにしなきゃ』と思って、自分の感情も感覚も全部抑え込むようになってた。人の様子をうかがうようになってた。
すごく苦しかったな~って思う。



去年石垣に来てからもずっと、何度も考えてた。

「わたし」が前に出すぎてしまうたびに、そんな自分を責める気持ちもあった。
人に迷惑をかけてないか、不快感を感じさせてないか、自分の考えを押し付けてないか、コントロールしようとしてないか…って、ずっと気にしてた。

たくさん自分の話をしてしまう自分が嫌で。
人の話を落ち着いてきける人、落ち着いて考えることができる人…、包容力のある人、エンパスっぽい人。
そういう人たちを羨ましく思ってた。
…と同時に、彼女たちを傷つけてないか、嫌な思いをさせていないかが、すごく恐かった。


『ブログを書きたい』『発信したい』と思いながら、自分のそういう性質を否定してたんだなって。

…逆エンパスっぽさを活かしたら、もっと発信していきやすいんじゃないかなって。

でね、ここまで来て、なぜかツインレイの発信が進まないことに悩んでいたんだけど…、この逆エンパスっぽい感覚を思い出すことって、自分らしくなることって、今の私にとってすごくすごく大事なことだよなって。
だって、この気質を否定したままじゃ、ぜんぜん「本来のわたし」じゃないもんね。


相手を立てて後ろに隠れるのではなく、私はわたしとして自立する。

彼に会ったばかりの頃、『わたしと同じエネルギーの人、初めて見た』って思った。
それは、今の私じゃなくて、セラピストだった頃の私だった。しかも、逆エンパスっぽさが前に出てた頃の私。

『私はエンパスっぽくなってしまったし、あの頃のように強いエネルギーがない』と思いこんでいたから、彼の強いエネルギーが、ものすごく輝いて見えた。
…なんだけどそれは、私自身が本質的に持っているもので、私自身が今でも隠し持っていたものだったからなのかもしれないなって。

『同じエネルギーを持ってる人がいるなら、同じことをできる人がいるなら、彼に任せればいい』と思った。『それは、わたしじゃないから』って。

だけど、違った。
それが、わたしだった。
ずっと認めたくなかった、消し去りたかった「わたし」。


昨日ね、あの頃の彼と自分を、エンパス・逆エンパスのイメージで考えてたの。
何通りかイメージはしたんだけど…。

私は彼を逆エンパス的な、発信型の人だと思ってたの。
だけど、もしかすると、エンパス的な、受信タイプなんじゃないのかなって。…いや、可能性の話なんだけどね。

魂の質が似てるから、関係性に関わらず心地よかった可能性もあるんだけど…、実は、それにプラスしてエンパスさんっぽいから、『この人のいる場所で、表現したい』と思ったんじゃないかなって。
『わたしという個を、ここまで受け入れてくれる人がいるの?』って思うような、不思議な感覚だった。



…でね、もう1つ。

私は恋愛をすると、『相手に引っ張っていってほしい』『前に立ってほしい』と思うタイプだった。
一歩下がって、彼についていくのがいいと思ってた。

『偉そう』と思われるのを覚悟して言うと…、
わたしを引っ張っていってくれるほど、強いエネルギーを持った尊敬できる人と付き合ったことがなかった。
相手に合わせて、自分のエネルギーを抑えこまなきゃいけないかった。

お仕事もそんな感じだった。
誰かの補佐役でいたいのに…、補佐役でもやっていけるんだけど…。
なぜか、「もっと前に出た方がいい」「サポートする側じゃなくて、サポートしてくれる人を見つけたほうがいい」って、いろんな人に言われてた。
その理由が、わかるようで…、わかりたくなかった。


だけど、なんか自分の中で腑に落ちた。
逆エンパスっぽいの、嫌だったんだ。前に出たくなかったんだ。エネルギー受信型の人でいたかったんだ。誰にも攻撃されることのない、いい人・優しい人になりたかったんだ。

相手を立てて、自分は後ろに隠れるんじゃなくて…、私自身がちゃんと前に出ることが必要だったんだ。
相手がお互いにそういうタイプなら、自立した関係のまま、対等でいればいいし。
もしもエンパスっぽい人だったとしても、似たエネルギーを持ってるなら、それをプラスに活かすことができるんだと思う。


6~7年位前に付き合った人は、わたしの男性性を否定したんだと思ってた。
…だけど、私のエネルギーを褒めてくれたのと同時に、それを恐れてもいた。だから、人前に出ることを止めたし、たくさん攻撃して、エネルギーを奪おうとしてたんだなって。
うまく循環しなかったんだなって。

これからどんな人に出会って、どんなふうに関わっていくかはわからない。

だけど、私が相手に合わせる必要はなくて、私はわたしでいいんだなって。
自分のエネルギーフィールドを保ってていいんだなって。広げていていいんだなって。

そんなことを思った。

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