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信じているからの違和感

 おかげさまで色々な人の支えもあって、就活も最終段階。
沢山の人と話ができたし、相談も乗ってもらった。本当に有難い。
 ただその一方で、沢山の傷も負った。(笑)
 これからは、一つずつ紐解いていきたい。

1.信じているからの違和感

 『また、ひだ君が立ち上がるって信じているから。』

 よく相談していた就活のエージェントの人が言ってくださった言葉。
そのときに何かが引っ掛かっていて、それが今なら何かわかる気がする。
 決して、言ってくださった方を責めているわけではなく、あくまでも、
僕が大事にしていこうと思っていることを言葉にするだけです。

 そのときは、就活の第1フェーズから第2フェーズへの移行期だった。
段階があったのは、自分だけなのだろうか。(笑)

自分は東京でも通用する実力を持っているんだと証明しようとして社会に適合するために頑張っていたのが、第1フェーズ。

第2フェーズは、凹凸のある僕が、ありのままで受け入れてもらえる企業(環境)が必ずあると信じて、自分を合わせるのではなく、自分が合う環境を見つけようとしていた。

 第1フェーズで、思っていたよりもボロボロになっていて、そんな自分を受け入れることが先決だと感じて、その日の面談は早く終わってもらった。
 そのときに、信じているよと言ってもらった。

 何を感じていたのかを紐解いてみると、
 今、落ち込んでいる自分、モチベーションも何もない自分を信じてはもらえていないと感じたのだと思う。
 言い換えると、信じてくれているのは、いわゆる元気が出て、モチベーションもある自分だろうなと感じたということ。条件付きに感じた。

 元気な自分、はつらつとした自分、悩まない自分、
そんな自分だけが『信じてもらえる』っていったい何なのだろう。


2.心的複合体

 コンプレックスは、日本語に直すと『心的複合体(性)』というらしい。
一般に、自分というものの自分の認知は、ある統合された画一的な自分を指すことが多いと思う。

 ただ、自分というのは、自分だけでわかるほど簡単でシンプルではないということは知っている人も多いはず。ジョハリの窓もだいぶ有名だし。

 自分は、自己分析をしてわかるものでも、他己分析をしてわかるものでもない。むしろ、人生を通して、いろんな自分に出会っていく『私という冒険』なのだと思う。

 自己分析や他己分析を通してわかるのは、あくまでも『傾向』に過ぎない。その時の環境、体調、人間関係、諸々が絡み合った一つの現象を見ているだけ。そのどれかが変わったときに同じ結果が出るとは限らない。

 そんな中で、『自分のことが分かった』と言ってしまうことは大きな勘違いだと思う。自分には、生きている限り、出会い続け、それを認めて統合し続けるものだろう。

 まとめると、見せられる自分でもそうでなくても、これが自分だと思っている自分でもそうでなくても、そのどれもが自分であって、
 反省・改善して、治ったと言って、ある自分を見ないようにすることは、
その抑圧の反対側の影の部分を大きくすることに繋がるのだと思う。

 僕は、話のトーンが単調だとか、ペースが遅いとか、
プレゼンのキレがないとか、営業におけるヒアリング力が弱いとか、
沢山の社会的な欠点が見つかった。まぁ、単純に『治せば』いいのだが。

 でも、あえて『治さない』のには、上記のように、
自分は治して、改善してよくしていくもの(直線的な成長)ではなく、沢山の凹凸があって、できないこともあるから、それをひとつずつ『自分らしさ』として受け取っていくものだ(立体/複雑系)ということを大事にしていきたいという思いがあるから。

 コンプレックスは、見たくないものではなく、
そもそもそういうものなのであって、それを自分として認めていくことしかできないと思っている。


3.まとめ

 『信じているから』という一見、素敵な言葉の裏側に、
この時の文脈においては、寂しさや悲しみを感じた。

 条件付きではなく、『悩んでいてもいいよ』って無条件に誰かを信じられる自分でありたいと思うし、
これからであっていくであろう沢山の凸凹でいびつな自分にも『そのままでいいよ』と声を掛けられる自分でありたいと思う。

 


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