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そんな人間に私はなりたい

 僕が思ってきた『人間性』って何だろう。
『人格者』って何だろう。

 高校のときに、顧問の先生に
『お前らからバスケを取ったときに何か残る人間になれ』
と言われ、そのときに直感で『人間性を残そう!』と思った。

 ”立派な” 大人になる。
 ”いい” お父さんになる。

 それを追い求めてきた。背中で語れるような ”立派な” 大人。
 壁には正面から向き合って努力で乗り越える。そして、”成長” する。
 沢山の経験を積んで、”器の大きな” 人間になる。
 弱いところは鍛えて克服する。

 そんな風に頑張ってきたが、最近惹かれる大人は、”人間らしい” 人。
人間の弱さも受け入れていて、いい意味でだらしない大人。(笑)

 いいも悪いも超えて、自分として心地よさを選べるような。

 そんなときにやっくんのnoteは特に刺さった。

 このnoteにある以下の部分が特に。

「人格者とは人間として生きることを考え続ける人」だと今は感じています。
人ではなく「人間」。
人間とは人と人や環境と環境、社会と社会の間で生きる人。
言い換えるとつながりの中で生きる人です。
繋がりの中で生きながら、生かされ、感謝と共に生きる。人間として。
日々、感謝をつづけるために。

 正直、これ以上うまく表せる気はしないが、
『人格者』『人間性のある人』は、曖昧な人なのかもしれない。
 人の間に生きられる人は、人間のいい部分だけでなく、
悪い部分や苦労を知っている人なのではないか。

 と書きながら、思い出したのは田辺君の書いた素敵なnote!

 やっぱり僕自身、人の間に生きられる人でありたいし、
これまでもどんな人にも寄り添えるような人になりたいと思ってきた。

 でも、いい自分だけでは寄り添えなかったこともある。
頑張れが、ときには応援にならずに追い詰めてしまったり、
いつも頑張っているような人には、頑張らないでいいよの一言が救いになったりする。

 そういうことは、頑張らない自分を許せないような経験があったり、
逃げる自分に後ろめたい気持ちを感じる経験があったり、
 そんな、ふつうネガティブな経験を自分の中で認めて、
許せているからこそわかることだったりするのではないかとも思う。

 きっと人間には、あるものが全部あるんじゃないか。

 嫌な部分、許せない部分、自分に課していた義務などを、
ひとつずつ許せていったとき、きっと”まるく” なるんじゃないか。

 そして、そんな ”まるい” ひとには、肩書きも役職も関係なく、
どんなひとも一人の人間として見えるのではないか。

 僕は、いい人ではなくていいから、そんな人になりたい。

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