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火事場のバカ力的生き方は辞めよう

ヒーリングワークでのワンネス体験と、本格的瞑想の場での呼吸を超え感覚を超え、空(恍惚の宇宙or量子場体験etc)により、ますますこの地球の叡智、二元の真理に触れる機会をいただいた。

ひとの生命、存在。身体、意識、魂、それらのことを如実にこの身で視て、体験しているからだ。

こころと身体、意識の在りようは、じつに面白い。
不思議なものだ。

わたし自身は、それ以前の人生体験もあり、そんなことを知らず(正確に表現するなら気づかず)に生きていた時期も有しているため、「そう」じゃない世界の捉え方を結構大多数の方が行っていがちであることを知っている。

けれど、生命の真実は、じつはちょっと違っていたりするのだ。

冒頭のタイトル『火事場のバカ力』のところに触れてみよう。すこし古い言い回しになるので、知らない方がいる可能性もふまえ、念のため説明すると、
火事など、咄嗟の急務がとつぜん起きたときなどは、思わず、これまでや、常識では考えられないような力を出せたり、動きが出来てしまったりする、ということだ。
火事が起きて、いまにも目の前で燃えてしまいそうだけれども、そのものはどうしても燃えて欲しくなくて、どうしても大切で、【考えなしに】到底持ち上げられるとは思えない重さや大きさのものでるのに持ててしまった、運べてしまった、とか。
大切なひとが挟まれている。このままでは死んでしまう。余談がゆるさない。思わず咄嗟に、その物が動かせてしまった、などなど、

事象にかかわらず、そういった類いの、思わずひとが本来、通常モードでは出すことができないような潜在的な力を発揮してしまえる、ということである。

あたり前に考えると、そんなことにはなかなか出会えないし、そんな力を発揮することなど、人は滅多になさそうに感じてしまうものだ。わたし自身もこのことの説明に、「とっさに」や「とつぜん」など、非日常ではない感覚を抱かせる表現を使用しているし、「そう」思い、感じても無理もない。

けれど、実際のところ、
それは残念ながら真実ではないのだ。

ひとは、思考によって目標や目的を定め、そして「想定し」行動をおこなう。
身体はそんな風に動きを得る。
何気なく無意識で動かせているように動いちゃっているけれども、実際はそのような手間のかかるプロセスを毎瞬、毎瞬、この肉体、頭脳、身体は行ってくれているのだ、
【無意識】に、と現していように、意識をすること無く。

ひとはつい、頭で考えて自分の行動をコントロールしようとしてしまう。
思わず、過去の記憶に則って「そうしたほうがいい」「そうであってほしい」と感じ、生命の求め、身体の機能的限界が、いま「そう」はあっていないとしても、頭で考えたように、とか、そのように出来ていたからといった記憶に基づいて「動き」をとってしまう。正確に表現しようとするならば、そのような動きを「選択」してしまう、のだ。

それは例えば、女だから、男だから。
子どもだから、この歳だから。

みんなそう(だと身勝手に思っていることであったとしても)だから、
常識的にそうしなきゃだから。etc、etc

ここでお伝えしたいのは、じつは案外、ひとが、わたし達が「日常」とか、「普通」と思い、感じていることのほうに、「咄嗟な真実」「バカ力」が潜んでいるというお話し。

気づかず、意識しないで「思わず」やってしまっている、出来てしまっている「それ」は、本当に生命の存在に則れているのか。
内臓や、四肢がいま出来る本来的機能加減に添っているのか。

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