男惚れする格好いい男たち㊳ vol.488
俺がこの歳まで積み上げた人生や読書感から来る、格好いい人間像について語ってみたい。
『梟の城』からの登場人物であり、重蔵編と題している。
彼は豊臣政権時代の忍び。
この男、天下人太閤を殺める刺客としての使命を帯びている。
恐らく、家康が隠密裏に放った刺客なのであろうが、戦国から江戸初期にかけて、こうした「忍び」という人間群が多く輩出されている。
絶対権力の背後で暗躍する者たち。
究極はやはり、泣く子も黙る権力者を暗殺することであろう。
秀吉の政治を陽とすれば、ざっくり言って家康の政治は隠であると言える。
それは家康の取った政治手法が、相互監視をメインとした目付け政治だったからである。
家康は絶対権力の存在を望まなかった。
常に合議制により突出した覇権を許さなかったのである。
その結果として、幕末は政治において責任制が欠如し、列強にいいようにされ、尊王攘夷思想を生み出されるに至る。
そして徳川政権に印象付けられるのは、密偵、暗殺といった暗い政治手段であろう。
これは、徳川家の家風に染み付いた固有のシミというべきもので、この悪癖は幕末まで直らない。
家康の性格といっていい。あるいは、家康の気質を飲み込んで、謀を立てている参謀筆頭の「本多正信」の好みであったかもしれない。
そんなところから、秀吉が天下人となっていた頃にも、家康による秀吉暗殺の策謀は、早くから囁かれていたところである。
物語はそんな背景から始まる。
この物語、主題は忍びの運命という問題に突き刺さっていく。
究極は、忍び同士の愛は成就するかという提言である。
女忍びを、『くノ一』という。
『くノ一』の不幸は、男の愛に感じやすいことである。
これに愛を与えさえすれば、あらゆる、危険、屈辱、苦悩にも耐え得るという奇妙な性を持っている。
それゆえ、伊賀の詐術者たちは、くノ一に偽装の愛を与え、真実に愛することを避け、これを上手く操作することを覚えた。
だから、忍びの世界において男女の愛が成立することは極めて稀である 。
それゆえ作者はこの部分に堂々と斬り込みを入れた。
男女の情欲の儚さを、伊賀の忍者は伝統の理性としてそれを知り尽くしている。
一旦の情欲は、発する時に既に滅びの韻を秘めているのであろう。
忍びたちは、この虚仮な情欲に身を托するのではなく、忍びとしての化粧の中に我が身を托することを選んでいく。
いや、選ぶしかない宿命を持っている。
この宿命に素直に従えない者たちは、時に騙し騙され、騙したと思って逆に騙し討ちに会い、互いの相克の中に、核たる己を見失っていく。
信念の伴わない人間は、その行動に迷いが生じる。
そして、期せずして遭遇した闘いに自ずと負けるのだ。
そこに陥らないために、迷いを封鎖するために、彼らは愛というもの対して蓋をしていく。
そして、己の身体を日々苦痛の世界へと導き、それを当たり前の自分まで作り上げていく。
だからこそ、この種類の男たちを支えているのは、世人に対して隠然とした別個の精神の世界に住み得ている唯一の理由として、人間の苦痛の機能から超絶するという自負を持っていることなのである。
忍びはそれだからこそ、超絶したアクロバティックさの現出を可能にした。
物語では、重蔵は刺客としての責務を果たすことはできなかった。
政権を揺るがす暗殺は実現しなかったが、それとは別に、磐石であるはずの政権は違う理由で滅んでいく。
重蔵の必然は違う場所を目指していった。
それにより、彼は彼なりの安息の場所を得たのである。
小萩という『くノ一』を伴侶にし、ささやかな夫婦としての生涯を閉じる。
前半の忍びの世界の辛辣さに対して、後半はそのコントラストが対照的で、静かに時を刻んでいく。
人生とは、ずっと波乱万丈ではないかもしれない。
それは俺にも当てはまるかもしれない。(終)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?