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存在している 書肆室編

本を友とし、本に背中を押され、だれかとつながったひとへ――


日々詩書肆室室長村田奈穂と柏原萌の、「本」と「書店」、「居場所」から始まる出会い。
『存在している 書肆室編』


生活、生存、それらはたやすいことのように語られがちですが、ひとが「生きる」ということは、大きな流れに乗れない、予期せぬ難題と交渉することの連続です。そして、それが得意なひとばかりではありません。 得意でなくても存在し、それを維持していく――書店という場は、そんなひとのいとなみと共に歩いていってくれる場所、そう思えるエッセイ集です。

HIBIUTA ONLINE  SHOPほか、全国の取引書店にてご購入いただけます。

――試し読み――

『気が付けば本屋』村田奈穂

一.「癌だと思います。」

 三十歳になった年の冬、私は次の日生きているかどうかも定かではなかった。

 二〇一六年の年末、私はストレッチャーに乗せられて、病院の検査室に運ばれていた。意識がぼんやりしていたので、どのように病院までたどり着いたのか判然としない。覚えているのは、覗き込む看護師さんの心配そうな顔だけである。
 腹痛は一年前から続いていた。しかし、ときどき腹痛が起こるということは、何も特別なことではないので放っておいた。次第に痩せてきて、よく転ぶようになった。不気味なのは、大量に食べているのに痩せていくことである。腹だけが異常に膨れて、私は地獄草紙の中の餓鬼のような姿になっていた。
 初めて嘔吐したのは、その年の十月頃である。体の中を通っている管を急に塞がれてしまったような苦しさが襲ってきた。さっき食べたままの食材の形の残った吐物を見て、戦慄した。
 上司から内視鏡検査を受けるよう勧められたのは、十二月末。年内の出勤日が残り二日となった日のことだった。
 この期に及んでも、自分が深刻な病気であるなどとは、ほとんど考えもつかなかった。検査が終わったら仕事に戻るつもりでいた。今年中にサインをもらわなくてはならない書類がたまっていた。
 少々面倒に感じながら、その夜検査のための薬を服用した。強烈な腹痛と気分不良に襲われたのは、その数時間後のことである。私は病院に運び込まれたのであった。
 内視鏡の検査も、いつの間に受けたのやらはっきりしない。ずいぶん苦しい検査と聞いているが、その時直面していた痛みに比べれば何ほどのこともなかった。点滴を打たれて、半睡半覚のまま外来診察室のベッドに横たわっていた。
一時間ほど経ち、医師が説明にやってきた。検査時に撮影したらしい内臓の写真が何枚もパソコンに映し出されて、あまり気持ちのよいものではなかった。早く診察を終えて、仕事に戻りたかった。書類がたまっていた。
「何かありましたか?」
医師はしばらく写真を見ながら首をひねっていたが、写真の方を向いたまま、その一部分をペンで指しながら言った。
「はい。癌だと思います。」
私は反射的に付き添いの母の方を盗み見た。母は身じろぎもせず、異様に黒目が大きくなった目で、まっすぐ医師の方を見ていた。
彼は私たちの方に向き直って、もう一度はっきりと言った。
「癌です。」

 医学や生物学について何も知らないので、人間が癌を発症する原因について不用意なことは言えない。それでも、自分が体調を崩した原因については心当たりがある。
 私は十八歳の頃から十年以上、拒食と過食を繰り返していた。
 多くの患者に違わず、大学入学を機に始めたダイエットが摂食障害の引き金だった。しかし、私は決して痩せたかったわけではなかった。
私はただ、「正しく」なりたかったのである。

 いつの頃からか、自分の中にはずっと「お前は正しくない」というメッセージが染みついている。
 自我を得てから周りを見渡してみると、他の子どもに比べて自分はあまりにも風変わりで的外れに思えて仕方がないのであった。実際、他の子どもたちはどこか自分を遠巻きに見て笑っているような気がしていた。クラスやクラブの輪に容易に溶け込めず、気づけば仲間外れになっていた。
 具体的に何が悪いのか自分でもよくわからなかったが、集団で暮らすにあたって、明らかに私には「間違っている」ところがあるのだった。そして、「正しさ」を獲得しなければ、この先どこに行こうと疎外感に悩まされることは目に見えていた。
何とかして「正しく」ならなければならなかったが、「正しさ」が何なのかすら、いつまで経ってもつかむことができなかった。
 この「正しさ」への渇望を考えるとき思い出されるのが、村田沙耶香の芥川賞受賞作、『コンビニ人間』(文藝春秋、二〇一六年)だ。同作の主人公、古倉恵子は、幼い頃より周囲と自分とのものの感じ方のズレを認識しており、社会的に重要とされることに意味を見出せずにいた。世間と自分との間隔を埋められないまま生きてきた恵子は、コンビニでアルバイトを始めたことにより、自らの行動をマニュアル化し、コンビニという環境に生息する他者に擬態するという技を獲得する。こうして恵子は、内面の独自性を保ったまま世間向きには「普通」の仮面を被ることができるようになる。
 当時まだこの作品は発表されていなかったが、十代後半の自分が採ったのも、恵子と同じ戦略だった。人間性というものを変えるのがいかに難しいことかは想像がつく。一朝一夕に「正しい人間」になることができないのであれば、せめて「正しく見える人間」になることが必要だ。そのためには行動と外見を正しくしなければならない。
 恵子がコンビニから学んだように、自分は書籍を通して「正しい」と思われる行動の見本を収集した。矛盾する意見を見つけた時は、より多くの人が指示する意見を採用した。
 大学に進学し、一人暮らしを始めるにあたって、私は自分の毎日をすべて正しさで埋め尽くしたかった。早寝早起き、野菜中心の食生活と毎日の適度な運動、化粧に清潔な服。そうすれば、今までのように人に馬鹿にされたり仲間外れにされたりはしないはずだと信じていた。
 新生活が始まって数か月後、私は疲れ果てていた。慣れない一人暮らしで丁寧な暮らしを維持するのは思っていた以上に努力が必要なことだった。毎日髪を整えて化粧をするのが、こんなに時間をとられることだとは知らなかった。バイト代をはたいて買った今どきの服が自分に似合っているとは思えなかった。何よりも、どれだけ努力したところで、私はまた仲間外れで一人ぼっちだった。
 それでも自分が「正しい」と信じる生活に固執していたのは、半ば惰性のようなものだったのかも知れない。過活動と、極端に脂質や炭水化物を抑えた食生活――生活習慣に関する本が、一様に推奨していた行動――のせいで、大学初年度の冬期休暇を迎えた頃の私の体は身長一五〇㎝、体重三二㎏までに痩せ細っていた。
綻びが生じたのは、その年の大晦日だった。私は母がおせち料理をつくるのを手伝っていた。母は私が骨と皮になっていることを心配し、やたらにおやつとしておせちのおかずをつまむことを勧めた。一日三食以外に物を口にするなんて「正しい」ことではなかったので、頑なに拒んでいたが、とうとう根負けして、黒豆を一粒口に入れた。
 止まらなくなった。突如、自分の体が飢えに反抗するように、食べ続けた。お正月までに、黒豆はおろか、三段重のおせち料理はすべてなくなった。
 過食への転じ方がどれだけ激しかったかは、冬期休暇が三週間後に終わったときに体重が四〇㎏に増えていたことからもわかる。ココアを粉のまま食べ、食パンを一斤まるごと食べ、冷凍のかぼちゃを、口を血だらけにしながら冷凍のまま食べた。自分がとても人間とは言えないような気がした。情けなくて、涙を流しながら、それでも食べた。
 大学に戻ってまずとりかかったことは、「正しい」生活を取り戻すことだった。重くなった体を引きずりながら、ストイックに運動と勉学とアルバイトと家事に取り組もうとした。しかし、一度暴食の後ろ暗い悦びを覚えた体は、度々自分の「正しい」生活の理想を裏切った。学生生活はどんどん荒廃していった。安定して出勤できなくなったので、アルバイトを転々とし、午前中の授業に出られなくなったので、教職課程と司書課程を諦めた。
 何とか大学を四年で卒業して、企業に就職したが、さらに症状は悪化の一途をたどっていた。拒食期に「正しく」生きようとして努力した反動が、過食期になると一気に押し寄せてきた。その時には食生活ばかりでなく、すべての行動が破綻していた。最初に就職した企業は、混乱状態の時に支部長に暴言を吐いてしまって、入社一か月で退職になった。その後幸運にも再就職することができたが、仕事から帰宅後深夜までコンビニをはしごして大量の食べ物を買い込み、口に詰め込んでいる間に朝を迎えるという毎日を送っていた。一睡もせず、出勤時間ギリギリにシャワーを浴びて、毎日仕事に行った。気持ちが落ち込んでいるときは、職場の人たちの顔色をうかがいながら、びくびく暮らした。興奮しているときは、だれかれ構わずつっかかり、不遜な態度をとって嫌われた。
 必死で追い求めてきた「正しさ」が、両手の間からぼろぼろ零れ落ちていくような気がした。
 世界中で多くの人が飢えに苦しんでいるというのに、自分は何をやっているのだろうと思った。自分にとって一番「正しい」状態とは、存在しないことではないかと思った。所詮どうがんばったところで、自分は世の中に対して害を与える要素の方が大きいのである。食糧を大量に無駄にしながら、誰を喜ばせることもなく生きていることが申し訳なくなり、できるだけ早く死ねるようにしようと思った。酒をめちゃくちゃに飲み、体に悪い物を食べまくった。

 ある意味で思惑通り、私は三十という若さで命にかかわる重病を得たわけである。
 緊急入院となったその夜、私は一人で点滴を打たれながらベッドに仰向けに寝て、これからどうなるのかと考えていた。
少しも死にたくなかった。


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