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【試し読み】ゆけ、この広い広い大通りを

わたしたちの困難はわたしたちにしかわからず、わたしたちが、いまここで花見をすることに、どれだけの勇気を必要としたかも、だれもわかってはもらえない。

二児の子持ちの専業主婦、バイクと音楽がすきなトランスの女性、都市で働くことができなくなったフェミニスト。
三人の地元で生きる同級生たちの、静かな交流と試みについて。

著者略歴
孤伏澤つたゐ
三重の漁村に生まれる。
『迎え火』で2018年、第2回Kino-Kuni文学賞大賞受賞。
代表作は『幻想生物保護官日記』『はるけき海境の同胞よ、蒼穹に物語せよ』『浜辺の村でだれかと暮らせば』。澁澤龍彦が好き。

ゆけ、この広い広い大通りを
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(ほか、全国取り扱い書店)


――試し読み――

 車が一台走っていれば、歩行者とすれちがうのもむずかしい狭い道が家々をつなぐ古い集落に、夢留は住んでいた。
 もうおじいちゃんおばあちゃんだけになっちゃってね、ここで一番若いのはわたし。
 空き家も増えている。住むひとがいなくなって久しい建物には、蔦がはびこり、屋根が陥没してしまっているものもある。わたしが中学生だったころは、まだこの集落にも子育てをする夫婦が住んでいたが、不便さから、みんな街のほうへと引っ越していた。
 両わきを囲む高いブロック塀でサイドミラーをこすってしまいそうで、おそるおそる、歩くような速度で車を走らせていると、水色とピンクと白のストライプのフラッグが掲げられている古い民家が見えてくる。ここが、夢留が父親とふたりで暮らしている家。
 軽自動車とバイクが停まっている狭い庭に、車の鼻先だけをつっこむ。他の車がとおる道をふさいでしまっているけれど……大丈夫。それくらいに、住人はすくない。
 車から降りようとすると、夢留が家から飛び出してきた。
「やっほー、まり!」
 短髪で薄化粧。シンプルなニットのトップスにラフなジャンパーを羽織って、ぴったりしたジーンズを履いている。連絡を受けとってすぐに支度をしてくれたのだ。
「ごめんね、急に連絡しちゃって」
「全然、大丈夫! それより、まり、大変だったね」
 夢留はさっさと助手席に乗りこみ、後部座席を振りかえる。
「ちせちゃん、しんどそうだね」昼食を終えて洗濯物をとりこもうとしていたら、上の子のちせが熱を出したと小学校から連絡があり、迎えにいった。その足で、夢留の家へ立ち寄った。ちせのとなりのチャイルドシートには、下の子のえむが眠っていた。
「えむちゃんも、具合が悪いの?」
「えむは昼寝してたの。今日、短縮登園の日で帰りが早くて。やっと自分の時間、って思った矢先に、小学校から電話がかかってきて」
 四歳になったえむは、病院嫌いの子で小児科の建物を見ただけで泣く。発熱しているちせのつきそいをしながら、泣きわめくえむをあやすのは無理だった。―こんなとき、わたしが頼るのはいつも夢留だ。
「えむちゃん、起きてユメがいたらおどろくかな」
「大騒ぎだよ」
 さすがに熱があるちせは、夢留の姿を見ようともしない。これが元気なときなら、締め切っていても車外までとおる大声で、ユメ、ユメ、と叫ぶように笑っている。
 車を発進させる。
「夢留も寝てた?」
「わたし? わたしは起きてたよ。作曲してた」
「そういうのって、さえぎられると音符が逃げちゃうって言うじゃない」
 対向車がこないかびくびくしながら運転しているので、曲がり角にくると夢留は高いブロック塀で見えなくなっている左側の道を見てくれる。
「音符に愛されてるから。逃げられたことはない」
 夢留にアシストしてもらい、狭い道を抜け、小児科のある隣街へとつづく唯一の道に出る。
「いま、なんの曲つくってるの?」
「知りあいに頼まれた、イラスト展のBGM」
 カーステレオからは、子どもたちが大好きなアニメソングが流れていた。夢留はハミングする。夢留は音楽が好きだ。名古屋での音楽教室で講師の仕事をし、個人で作曲も請け負っていた。
「イラスト展にBGMとかあるんだ」
「アニメーションの展示もするらしくて、それに」
「配信、ある?」
「うーん、むずかしいかな……」
 専業主婦のわたしが、家事をおろそかにせずにいける場所に、ギャラリーはなかった。夢留が年にいちど貸し切って歌うライブハウスは名古屋だし……。夢留がつくっているものにふれられるのはソーシャルゲームだけ。
 だけど……。
 あれね、ハマるとヤバいよ。わたし、自分の曲が流れるところにいき着くまでにお気に入りのキャラができて課金しちゃった。
 いくら?
 それは言えないな。でも、ギャラより課金した。バイクのパーツ、買えばよかった。
 そんなやりとりをしたことがあって、ハマるのがこわくて夢留の曲が流れるところまでゲームを進められたことはあまりなかった。
 小児科の駐車場に車を停める。えむはまだ寝ていた。
「ごめん、お願い。―起きると泣きやまない」
「おっけ、おっけ。いってらっしゃい」
 夢留に車のキーを渡し、歩きたがらないちせを抱きかかえる。肩口に押しつけられた頬は、こちらが汗ばむほど熱かった。
 診察は一時間ほどで終わった。会計まえにスマートフォンを見ると、夢留とえむは車を降りていて、小児科のはすむかいの公園で遊んでいるとのこと。
 帰れそう、とメッセージを送る。了解、とすぐ返信。
 駐車場に出ると、公園の車止めのむこうに、夢留とえむの姿が見えた。病院の建物を見て、イヤ、とえむが叫ぶ声が駐車場まで聞こえてくる。
「大丈夫だよ、えむちゃんはママの車に乗るだけ。お医者さんにはいかないよ」
 夢留は、ちいさなちいさなえむの手を、とても壊れやすいもののように握って歩いてくる。横断歩道を渡るときには抱きあげて。えむは絶対に病院にはいかないという強い意志を刻んだむずかしい顔で夢留の体にしがみついていた。
「お疲れ~、どうだった」
 夢留はすぐに車のロックを解除してくれる。
「ただの発熱だって。風邪でもないし……新しい家に引っ越したばかりだし、知らないうちに疲れてたのかも」
 ちせは夢留の声が聞こえても目を閉じて脱力していた。後部座席に座らせると、ぐにゃりと体がくずれる。
「ユメ、ユメ。すべり台もうおしまい?」
 チャイルドシートに座らされたえむは、遊び足りないことを訴える。
「おしまいだよ、ちせちゃん、お熱があるからおうちでねんねしなきゃ。―環境変わって熱出すの、大人でもあるよね。まりは大丈夫なの」
「わたし……は、寝こんでる暇とか、熱出してる暇はないなあ」
「去年ちせちゃんから胃腸風邪もらったときは大変だったね」
「環の仕事が暇なときで助かったよ。やっぱりだめだよ、子どもの食べのこし、どれだけもったいなくても食べちゃ。いろんな病気もらっちゃう」
「ね、ママ。ユメといっぱいすべり台したの」
「よかったね~。ユメもすべったの?」
「すべったよ。うずまきのやつとローラーのやつ。おしりにくるねえ」
「おしりが割れたんじゃないの」
「おしりは最初から割れてます」
 展開のわかりきった冗談に笑ってから、車のエンジンをかける。
「ユメの運転する車乗りたい」
「おっ、えむちゃん、ユメの車に乗りたいの?」
「飛ばすからだめよ」
「四輪は飛ばしません。楽しくないもの」
 夢留はバイクが好きだ。車の運転も上手で―夢留はだけど、自動車やバイク好きによくある、助手席からのアドバイスをしてこないひとだった。いまのは合流できたよねとか、もっとスピードを出したら? とか夢留は言わない。注意がおろそかになっているとさりげなく声をかけてくれることはあるけど。
 車を発進させる。きた道をもどり、家に送り届けるまでのあいだ、夢留はえむとしりとりをしていた。
 また庭に車の鼻先をつっこむ。日が暮れかけていた。夢留の父が縁側に出て、軒先のフラッグを片づけているところだった。夢留の父は、足が悪く、広範囲を歩けない。身のまわりの世話は、介護サービスなどを頼らず、夢留がひとりでしていた。
「今日はありがとう。ちせが元気になったらまた遊んであげて。ほら、えむ、ユメにバイバイしよう」
 夢留と今日はここまでだとわかり、えむは泣きそうになる。だけど、また遊ぼう、と夢留が窓越しにハイタッチをすると、くちびるをぎゅっとひき結んで涙をこらえながら窓に手をふれさせた。
 家に帰り、ちせを寝かせると、昼間途中で放り出した家事に手をつける。それが終わると、えむに食事をさせ、お風呂に入れる。……、寝かしつけを終えても、夫の環はまだ帰ってこなかった。
 ようやく一息つける。そうだ、夢留に今日のお礼のメッセージを送らなきゃ……。スマートフォンを手に取ると、新着メッセージが一件届いていた。
 ―来月の十日から一ヶ月、休みが取れた。そっちへ帰ろうと思ってる。まりの都合はどうかな?
 送り主は、幼なじみの清香だった。大学進学とともに地元を離れた清香は東京で働いていた。ちせが生まれてから、いちども会っていない。こちらへ帰ってくるのは何年ぶりだろう。
 夢留にメッセージを送って、清香が帰ってくることを報告したいくらいにうれしかったが、やめておいた。夢留はきっと、楽しんでおいでよ、ちせちゃんとえむちゃんはあずかるよ、と言ってくれるから。
 そんなつもりはなかったが、夢留にそう言わせてしまうし、……ママ友のひとりに、このあいだ、シッターがいていいね、と言われた。わたしならこわくてあずけられないわ。そうもつけたされた。
 夢留のなにを知っているの。反論できなかったことを悔やんでいるし、だけど……夢留を都合のいいシッターにしているという指摘には、……強い言葉で否定ができない。
 今日だって、夢留に頼らずひとりでなんとかすることだってできた。実家はすぐそこだ。母に電話をすればよかったのだ。―母に子どもをあずける億劫さと、夢留の明るい声をはかりにかけて、わたしは高い頻度で夢留を頼る。
 メールをくれた清香とは、保育所から高校までずっと一緒だった。大学はさすがに別々だったが、おたがいの進学先は生活圏が近く、頻繁に遊んでいた。環と結婚してからも、妊娠するまでは年に一回くらいは会っていた。
 年賀状には子どもの写真を添えていたから、わたしたちがふたりの子どもを持ったことは清香も知っている。ちせとえむにも、会いたいだろう。
 子どもたちも連れてっていい?
 大丈夫。
 返事はすぐだった。
 何歳になったんだっけ。
 七歳と四歳。土日がいいな。
 約束の調整をしていく。送ったメッセージにすぐ返信があるのは、高校生や大学生のころみたい。大人になると、メッセージのやりとりはとどこおりがちだ。
 コンサートの話、見た展示の話、読んだ本の話……大学生のころから清香の話題は変わらなかったが、わたしのほうは、結婚して仕事を辞めてからは、環の話しかすることがなくなった。古い映画をレンタルショップで借りて鑑賞したり、図書館で借りた本を読んだり……そんな話をしたこともあったけれど、わたしが観る映画も読む本も、都会に住む清香には何年もまえにとおりすぎたコンテンツで、記憶も薄れていたし、わたしは家事に、清香は仕事に追われて、やりとりはすぐに途切れるようになり、いつのまにか絶えてしまった。
 おたがいの近況の報告もしあわなければ、わたしたちだけにしかわからない冗談を言いあうこともなく、日程の調節がすんだ。打てばひびくようなやりとりは心安かった。
 じゃ、十五日に。夜遅くにごめんね。ありがとう。
 楽しみにしてる。気をつけて帰ってきて。
 夢留にもメッセージを送る。
 今日はありがとう。助かった! 帰ってから、えむとしりとりのつづきをしたよ。
 返事はない。夢留は日が暮れてからは、家からなるべく出ずにさっさと寝てしまう。
 夢留から返信があったのは朝。チェックできたのは受信の二時間後だ。専業主婦の朝は忙しい。昨日の深夜に帰宅してお風呂も入らずに寝た環を起こすところからはじまる。昨日あんなに熱があったのがうそみたいにけろりとしているちせと、幼稚園にいきたくないとぐずるえむに朝食を食べさせて、ちせを集団登校の集合場所まで送り、えむは送迎バスに乗せる。そうしてようやくわたしの朝食。食卓においたスマートフォンに視線を釘付けにしながら、ご飯を口に運ぶから、けっこう食べ物をこぼしてしまう。子どもがいる家だから、新築でも食べこぼしには無頓着になる。
 ―楽しみ! いつにする? 今月はレッスンすくなめだから、調整できるよ。
 短縮登園のえむはバスに乗せたと思うともう帰ってくる。食器を洗って洗濯物も終わらせなければ。夢留に返信するのはえむを迎えにいってからになるだろう。返信が半日、二日と遅れても、夢留とのメッセージが途切れたことはない。



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