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医療者の経験を後世に 石巻市立病院看護部長・﨑山晶子さん(58)

 石巻市立病院は震災から5年半後、市内中心部の石巻駅前に移転再建された。看護部長の﨑山晶子さん(58)は、旧北上川河口にあった旧病院の開院(平成10年)と同時の採用。訓練で津波への対応を確認していたが、周囲から孤立してしまう状況は想像していなかったという。語り部として各地の看護師の研修で体験を語ってきた﨑山さん。あの日を忘れず、市民に信頼される病院づくりに向ける。

 﨑山さんは震災当時、病棟の看護師長で、5階建て4階のナースステーションで大地震に遭遇。他の看護師にテーブルの下に潜るよう指示し、近くの物を押さえながら揺れが収まるのを待った。ナースコールが鳴っており、手分けして患者と建物の安全を確認。病室内の全てのベッドが中央に寄っていた。

崎山晶子さん

市立病院と共に歩んできた﨑山さん

 そうこうしているうちに聞こえてきたのは「津波が来る」こと。間もなく南側の窓から、海岸の堤防をあっという間に越えてきた水のかたまりが見えた。川と海がつながり、残ったのは市立病院と隣の文化センターだけ。ハザードランプがついたままの車や家が流されていく。一瞬、家族は大丈夫かと考えたが、看護師として気持ちを切り替えた。

 1階が水没し、自家発電装置も停止。日が沈まぬうちに懐中電灯を集めた。当時、院内には職員と患者、取引業者、さらには近隣のショートステイの利用者ら約450人が3階以上に避難。給食関係もリネン庫も被災し、ありったけのもので寒さや空腹をしのいだ。

 周辺は火災も起きており、覚悟を決めた看護師らは、万が一に身元が分かるよう上腕に名前を書いた。﨑山さんは一瞬つながった携帯電話で家族の無事を確認できたが、そうでない人もいた。

 交代で患者対応し、13日からようやく救助が入った。14日の午後10時半には全ての患者がヘリで救出され、職員は病院でもう一泊。翌朝にヘリまたは徒歩で病院を後にした。﨑山さんは職務から解放され、ここで初めて「被災者」になった気がした。市立病院では震災で亡くなった患者はいないが、病院に向かっていた看護師長ら4人が犠牲になった。

 1日休み、17日からは避難所の医療支援に入った。それは9月末まで半年続き、さらに半年間は保健師と仮設住宅の巡回支援。その後は他の病院への散り散りになった看護部全体のサポートや訪問診療への同行、首都圏に研修に出たりした。

再建4年 階段も 4段目

 新しい市立病院は平成28年9月に診療を開始。復興の階段は最上階に届いたが、まだまだ満足できる診療実績になっていない。「病院ができるまでみんなで頑張ろうと一つになってきた。その気持ち忘れず、もっと組織や医療の質を良くしていかないといけない。再建から4年なので、信頼される病院づくりは10段階の4段目」と話す。

 﨑山さんは震災で学んだことがある。それは、やろうと思ったことはすぐにやること、そして普通の生活のありがたさ。「全国で災害が頻発し、何が起こるか分からならい世の中だから、夫とけんかしても朝には仲直りして笑顔で見送りたい」。
【熊谷利勝】


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