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学校に850人 避難所運営に奔走 東松島市赤井・渡辺勝さん(77)

 避難所となった赤井小学校で自治組織を立ち上げ、800人を超す避難者を支えた。「トラブルもなく避難所を閉鎖し、4月に学校が始業式を迎えられたときはほっとした」と振り返る。忘れもしない10年前の記憶を鮮明に語り始めた。

 あの日、自宅のビニールハウスで農作業中に被災。立つこともできず、ゆがんだハウスの戸を力いっぱい引いて外に出た。当時は東松島市自主防災組織連絡協議会の会長を務めており、地域防災の向上に人一倍力を入れていた。

 まずは行政区内の役員を集め、情報を収集した。2級河川の定川沿いの北赤井地区は内陸であり、比較的被害は少ない。安否確認を終えるころ、赤井小学校に続々と避難者が集まっているとの情報が飛び込んできた。

 陸前赤井駅に近い住民は赤井市民センターに避難したが、背後の定川で越流のおそれがあるため、当時の渥美富雄所長が赤井小に避難誘導した。津波の影響で間もなく定川は越流し、水は赤井小の校庭まで到達した。

復興の階段 渡辺勝さん (3)

20日間の避難所の様子を振り返る渡辺さん

 ピーク時の避難者は約850人。多くは元市議会議員だった渡辺さんを知っており、全員が話に耳を傾け、協力体制を確認。1教室約60人の避難者から班長と副班長を出し、朝晩に昇降口でミーティングを開くことにした。

 「うちの班は体調不良者なし」「トイレ掃除はどうなった」「暖房器具の調達は」。班長らの声が飛び交う。学校の教員もオブザーバーで参加し、設備面で支援した。市では震災前から市民協働のまちづくりを展開しており、渡辺さんを筆頭に校内にミニ自治組織が確立されていた。

 「避難者で心身的に動ける人にはプールからの水くみなど何らかの役割があり、みんなで支え合った。トラブルもなく、日々の不安の中でも避難所では安心した生活ができていたと思う」。職場が食品関連の避難者は、食材を調達するなど公助が届く前に自助、共助で乗り越えた。

 「赤ちゃんが生まれるかもしれない」。震災から5日目の16日、避難所にいた看護師は血相を変え、渡辺さんに伝えた。仙台市から実家に帰省していた20代の女性の出産予定日が迫っていた。渡辺さんは看護師の助言で救急車を呼び、石巻赤十字病院に搬送した。

 翌日、女性は無事に出産。朗報は赤井小の避難所に伝わり、住民たちは我が子のように喜んだ。渡辺さんは「この知らせは、みんなを勇気付けた」と思い起こす。日を重ねるごとに避難者は減るも、渡辺さんには成しえなければならない大きな目的があった。

 「始業式前に避難所を閉鎖し、地域の子どもたちが学校に通えるようにしたい」

 避難者と何度も話し合った結果、学校にいた約120人は市民センターに移った。「4月の始業式に間に合わせることができた」と渡辺さんは胸をなでおろし、誰もいなくなった学校を確認した後、自らも20日ぶりに自宅に戻った。

心のケアまで届かず 7段目

 復興の度合いを最高10段の階段で表せば7段目という。「無我夢中の避難所運営だったので、心のケアまであの当時は踏み込むことができなかった。それがやや悔やむ」と話していた。「10年かぁ。早いな。あの日、赤井小の避難所にいた人たちはどのような気持ちで10年目を迎えるのだろう」とつぶやく。

 毎年3月が近づくと思い出すが、記憶は色あせない。【外処健一】


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