見出し画像

地域を守るため住民も協力 時とともに風化された事実

 3密回避、マスク着用、手洗い・消毒の徹底は、この半年間に何度も繰り返されたコロナ感染予防策だ。今から約140年前の明治のコレラ流行時でも患者が触ったものの消毒の徹底や群集禁止などの措置がとられた。腐敗した食べ物(魚介類、野菜、果実など)や不衛生な水が原因ともされることから、近隣地域で患者が出た場合、衛生委員は管内町村に「飲食注意」を呼び掛けた。【平井美智子】

 水については、戸塚貞輔という篤志家の逸話が残されている。
 米穀や生糸の売買で名を挙げ〝石巻地方随一の豪商〟と呼ばれた戸塚は、コレラと飲用水との関係に着目。仲間と1千円(現在の金額で2千万円相当か)を投じて旧市役所裏(日和が丘)に深さ40㍍もある大きな井戸を掘った。昭和46年発行の石巻市医師会史では「この井戸は昭和の初期まで戸塚井戸と称されて住民の予防衛生に貢献している」と伝える。

 感染拡大の危機感は住民たちも動かした。「感染症クライシス」によると、石巻村では〝中等〟以上の住民から臨時に徴収した協議費を巡査心得の雇用や消毒薬の購入、避病院新築、町中の下水、ごみ溜めの清掃費といったものに充てた。このほかにも有志からの寄付も多く集まり、協議費と合わせると国からの対策費を上回った。「予防の上で不可欠な財源」という。

木々の下あたりにかつて戸塚井戸があったと思われる(日和山の坂下)

木々の下あたりにかつて戸塚井戸があったと思われる(日和山の坂下)

 竹原さんは「流行時には『人民の義務』という考えのもと、多様な有志の活動があったことが分かります」と記し、現代の災害時の被災者支援の力の大きさと重ね合わせる。

 9月初旬にピークを迎えたこの年の県内の流行は10月に入って減少傾向となり、12月13日に終息した。石巻地方はそれより少し早い11月中旬に感染者がいなくなった。

 余談だが石巻で生まれた文豪・志賀直哉の兄直行もこの年のコレラにり患し、11月7日に3歳の幼い命を落とした。「牡鹿郡虎列刺流行紀事」の患者週間表11月1―7日に「死亡1」とあり、これが直行と推察される。弟の直哉は3カ月余り後の翌年2月に住吉で産声を上げた。

 コレラ騒動がひと段落すると、住民たちは亡くなった人たちを慰霊するとともに、それまでのうっぷんを晴らすように祭りを開催。また前述した寿福寺のほか桃生郡鹿又の光明寺にも経緯を伝える紀念碑が建立された。

 しかし、喜びもつかの間、医師会史や石巻市史(四巻「医療編」)などによると、3年後の明治18年に天然痘とともに再び地域を襲い、20年には天然痘、24年はチフスとコレラ、28年はコレラ、29年は天然痘…と伝染病が幾度も人々を苦しめた。

 大正期にも流行したが、石巻が市になった昭和8年に長年の念願だった上水道が完成。これにより飲用水を疫病から守る環境が整い、江戸後期から1世紀以上にわたる地域とコレラとの闘いは終止符を打った。

 医師会史の「石巻地方とコレラの流行」の結びでは「われわれ石巻住民の祖先が、この疫病を恐るべき怪魔と信じ手をこまねいて嘆息し、肉親離散や一家一族の死亡等の悲惨と斗った歴史を繰り返して来た現実を忘れてはならない」と警鐘を鳴らす。しかし、先人たちのこうしたメッセージは、時間とともに忘れられていった。

 その理由の一つに、コレラや赤痢、チフスなどの疫病禍は歴史上の出来事になったことがある。現在も世界ではコレラにより年間130万―400万人が感染、2万―14万人が死亡していると推測され、感染地域を旅行した日本人がり患するケースもあるが、治療方法が分かっているため深刻な状態にならずにすんでいる。

 もう一つの理由としては、この100年の間に第2次世界大戦や自然災害といった地域住民にとって生命を脅かす災禍が幾度もあり、疫病の恐ろしさは人々の記憶の片隅に追いやられたと思われる。

 忘れるということはつまり風化すること。東日本大震災を経験した私たちは災害の風化が後世にとってマイナスになることを実感しているはずだ。それは疫病についても同じであると受け止め、改めて見つめ直すことは重要だ。


現在、石巻Days(石巻日日新聞)では掲載記事を原則無料で公開しています。正確な情報が、新型コロナウイルス感染拡大への対応に役立ち、地域の皆さんが少しでも早く、日常生活を取り戻していくことを願っております。


最後まで記事をお読みいただき、ありがとうございました。皆様から頂くサポートは、さらなる有益なコンテンツの作成に役立たせていきます。引き続き、石巻日日新聞社のコンテンツをお楽しみください。