見出し画像

石巻が育てた天才彫刻家たち 第2部 昭和6年2月 佐藤露江記者へ手紙

 私の手元に「露江句集 海の門」(昭和7年10月10日発行)があります。石巻と達について調べる上で重要な資料と考え、入手しました。

 奥付には著作者佐藤露江(ろこう)、印刷者木村得太郎、発行者菅野純一郎、発行所郷土社書房(石巻町坂下通)と書かれています。著作者の露江は石巻日日新聞社の社員でした。印刷者の得太郎は、第1話で渡辺忠右ヱ門から紹介された人物です。

 達の日記に初めて名前が出てくるのは、昭和6年2月5日で「渡辺忠右ヱ門氏から通知に接した。佐藤露江氏へ手紙を書く」とあります。2人の交流のきっかけをつくったのは、忠右ヱ門だと思います。

2の上に顔写真

画像3

佐藤露江と句集「海の門」

 11月11日の日記には「石巻日日社を訪ねる。鹿又の高橋さんの銅像は、その後非常に紛糾しているらしい」と記されています。達はここで露江と会い、作品制作に関する重要な情報を得ました。この件については、近いうちに紹介します。

 そして、昭和7年10月21日の日記には「佐藤露江君から短歌集『海の門』寄贈せられた」と書かれています。露江の名前はその後、何度も日記に出てきます。

 海の門の巻頭言で露江が師事していた萩原井泉水は「露江君は石の巻において、私達の道の港をなしている人だと言ってもいい。いつまでも古い良い港であってほしい」と称しています。

 巻末で露江は「回顧すれば大正元年10月10日仙台に暇を告げて、この地に移って来た当時の、わが一介の漂浪子のさびしい姿がありありと眼中に蘇って来る。予期せぬ私の石巻生活、偶然なる俳句生活、何れも共に不思議な因縁という外ない。句集『海の門』は私にとって、石巻生活満20年の記念塔でもある」と語っています。この部分は、達もきっと読んだでしょう。

 石巻の歴史第10巻の別冊には「佐藤露江先生墓誌」が掲載されていて、略歴が分かります。生まれは明治25年、出身地の柴田郡沼辺村(現村田町沼辺)は、達の実家から一山超えたところです。

 本名は貞治で、露江は文人としての号ですが、日常的に使っていたようです。東北学院で学んだ後、東北日報国民新聞仙台支局で記者として働き、石巻に来て石巻日日新聞社に入ります。露江と名乗るのは、この頃からです。

t5ごろ 佐藤露江前列左3人目

石巻日日新聞創刊当初の社員たち。前列右から2人目が若い頃の露江

 戦時中、日日新聞は国の方針で休刊を余儀なくされますが、昭和23年に復刊させた中心人物でした。まさに日日新聞の中興の祖と言えるでしょう。墓誌にはその他数々の功績が刻まれています。

 達は、石巻訪問のたびに日日新聞社を訪ねています。露江は文化的な交流だけでなく、渡辺忠右ヱ門と共に作品依頼に関する情報も伝えていました。達は露江に昭和7年6月「凝視」というブロンズ像を送っています。これがどんな作品なのか、現存するのか、あれこれ想像しています。【鈴木哲也】


筆者プロフィール-01




最後まで記事をお読みいただき、ありがとうございました。皆様から頂くサポートは、さらなる有益なコンテンツの作成に役立たせていきます。引き続き、石巻日日新聞社のコンテンツをお楽しみください。