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石巻・門脇2村で共立避病院 医師ら寝食忘れて対応

 「感染症クライシス」の著者、竹原万雄氏は日本近代の医療・衛生史が専門。同書では、これまでの研究資料などを引用して明治期の感染症(伝染病)発生時の行政対応や住民意識なども描いている。【平井美智子】

 例えば、コレラが発生した場合、まず患者の隔離と周辺の消毒をしなければならないが、明治政府の施策は「人権を無視した強引なもの」であり、それを強行する警察の強圧的態度が人々にコレラの恐ろしさ、消毒、隔離に対する恐怖心を植え付けた。

 また、避病院(隔離病院)については、医師、看護師らマンパワー不足と共に「実態は患者の収容施設にすぎず、自然治癒をするごく少数をのぞいては、死を待つところであった」という。

 そのため、コレラ流行の現場では「病院つぶれろ、警察やけろ、巡査コレラで死ねばよい」などといった過激な言葉までささやかれたと伝える。

②古地図 避病院があったところをマーク

昭和18年の石巻市全図(高橋佑弥さん所蔵)。青で囲った「傳染病院」の前身が明治15年に建てられた共立避病院。広域行政事務組合の委託伝染病棟が石巻赤十字病院に併設される昭和39年まで感染病発生時の治療拠点となった

 明治15年に県内には26カ所の避病院があったが、牡鹿郡は門脇村内に建設された「石巻門脇両村共立避病院」の1カ所だけだった。 現在の泉町四丁目にあたる場所で、郷土史家の辺見清二さんによると「日和山、羽黒山を併せて称した〝鰐山〟界隈に今でこそ公共施設が多く並んでいるが、その最初となったのが避病院だった」という。

 施設完成前までは仮病室で対応したが、感染が一区切りして閉鎖する9月25日までの約2カ月間の入院患者は48人。このうち全癒者は15人で残る33人は命を落としており、致命率約70%と極めて高かった。

 こうした状況の中、現場で治療に従事したのは医員3人、看護人7人と少人数で、医療崩壊しかねない状況だった。

 竹原氏が「感染症クライシス」で参考にしている勝又家資料の持ち主の勝又昇は、やけど・皮膚病の専門医として知られており、当時の年齢は30代前半。医師や役人、警察などから県が任命し、消毒などを担当する〝検疫委員〟の役職にも就いていた。

 避病院で治療にあたっていたかどうかは不明だが、もう一人の医師で検疫委員の今井良英と共に、牡鹿郡を代表する医療従事者として患者治療に力を注いだことを推測している。

 また、「石巻市医師会史」でも昇に関する欄で「明治十五年のコレラ流行時患者は邸内に充満していたという」と記述しており、自宅でも治療をしていたことをうかがわせる。寝食を忘れて患者に向き合った姿は、新型コロナウイルスと闘う現在の医療関係者と重なるものがある。

 一方、「警察やけろ、巡査コレラで死ねばよい」と罵詈雑言(ばりぞうごん)を浴びせられた警察関係者も、感染の危険にさらされながら職務に当たった。

 当時は陸路以上に海路が交通の中心で、地域外、特に流行地方から来る船舶のチェックが求められた。文字通り〝水際作戦〟としての船舶検査から始まり、患者が発生した場合の隔離、吐しゃ物処理、最後は死体の処理に至るまで広範囲にわたり最前線でかかわった。なかには感染した関係者も。

 竹原氏は、マンパワー不足から臨時に採用された石巻警察署の巡査心得について「予防に尽力していたが、コレラに罹患したと警察本部に電報が来た」との記述を当時の新聞から引用。そして「警察は罹患の危険にさらされながらも流行現場の最前線で予防にあたる人的な要(かなめ)」だったと評価する。

 コレラ禍の最前線で予防に尽力したもう一つの存在に衛生委員があった。住民の中から選ばれ、警察と共に船舶検査や感染者の対応など多岐にわたる仕事を担当。活動中に感染し命を落としたケースもあった。


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