神話の世界の「君の名は」
私の「遅れてきた「君の名は」ブーム」はこの動画を見た後、映画の補完版といえる小説を読んでどんどん広がっていきました。
この文庫はほんとに補完版だった。
映画でこぼれ落ちてるストーリーが拾われてて、「そういうことだったのか!」って思うよ。
おすすめ☆
この小説は
・三葉の中に入ってる瀧くん視点
・テッシー視点
・四葉視点
・お父さん視点
の4本立てなんだけどね。
三葉の髪型ってそういう意味があったんだー!とか
テッシー、爆破についてそんなふうに思ってたんだー。とか。
映画と違って、それぞれの視点で描かれてるから、それぞれの心の機微がよくわかる。
三葉のあの髪型。
「髪の毛をこの形に結わないかぎり、人前には出ない」って決めてるっぽいよ。
サヤちんいわく「あれはね、ああやって自分で自分を縛っとるのよ、わざと」ということらしい。
なるほど、たしかに。
町中が氏子の神社の跡取り娘で、父親が町長で、全員に顔と名前が知られているという立場だから、ちょっとでもだらしなくしていれば、すぐ誰かからチェックが入るから、か。
あと、テッシーが糸守町について愚痴りまくる女二人に「お前らなぁ!」ってちょっとイラついた口調で「カフェ」と言い張った自販機に連れて行くくだりに、そんな思いがあったとは。
って感じだった。
男には男のロジックがあって、それを口にしないのね。
いや、言えよ!気づかないから女は!って感じだったよ(笑)
まあ、女側も気づいて欲しい、察してくれるとこでしょ?で言わないわけだからお互い様なわけだけど(笑)
新海監督の作品は女の子に夢を見てる、みたいなことをちょいちょいいろんなとこで見たけど、まあ、私は「君の名は」しか見てないからそこまで三葉に夢見てる的なことは思わなかったけどね。
少女マンガやドラマは男子に夢見てるわけだから、まあそれくらいいいよね(笑)
夢物語のファンタジーな世界の中で、現実に味わうような感情の揺れを味わえればいいわけだからさ。
瀧くんと三葉がどこで恋に落ちたかわからない。っていう話もさ。
恋なんてある日突然落ちる感じで描かれたりするから、あんまりそこも気にならなかったなー。
彗星が落ちるっていう生命の危機と時空を超えるっていう、なまぬるい日常では味わうことのないスリルと恐怖と相手を思う気持ちが吊り橋効果的な感じでなんか恋に落ちたんだろうねぇ。
で、デジャブみたいなものあるじゃん?
あ、この場所、夢でみたような気がする。
そういうふわっと香ってくる感覚を「人との出会い」で表したのかなー、なんて。
「誰かを探している」
「なにかこれっていうものを探している」
そういうなにかわからないなにかをずっと探してる感覚ってわりと誰でも持ってるものじゃないかなーって思うから。
デジャブって脳の誤作動かもしれないけど、実際どっか時空を超えて本当に会ったり、行ったりしたのに、すっかり記憶から抜け落ちたのかもしれないし。
でねでね。
この本を読んで、私の中でいちばんテンションが爆上がりだったのが。
お父さん視点の物語。
映画の中では嫌な父親という役回りでしか出てなかったお父さんだけど。そういう背景があって、あんな態度をとってたのね、ってのがわかる。あと、映画を3回見て、最後まで納得いかなかった
「え?けっきょく糸守の人たちは避難間に合ったの?え?もう彗星落ちてきてたよね?え?え?なんか知らないうちにまた時間戻ったりしたの??」の部分が解明されました。
そこが解明されると知って、読み始めた本だったので。
すっきりでございます。
あ。でもテンション爆上がりだったのはその謎だった部分が解けたからじゃなくて。
宮水神社の御祭神と、その神様が何を成したかって話なんだけどね。
まず日本神話の大前提として
・天の神様(天津神(アマツカミ))と地の神様(国津神(クニツカミ))がいます。
・天津神のトップがアマテラス(伊勢神宮)。国津神のトップがオオクニヌシ(出雲大社)。
で、まあなんやかんやあって、天の神様と地の神様はちょっとぎくしゃくしてるんですよ。
(説明してみようかと思ったけど、読んでもらえなくなりそうでやめた(笑))
簡単に言うと、地の神が治めはじめていた日本を、天の神様たちがあるとき「もともと私たちがつくった国だから返してもらおーっと」って言い出して一悶着があったんですよね。
そのやりとりのなかでね、けっこう位の高い天の神様でもなかなか倒せなかった神様がいて、それがアメノカガセオっていう星の神様でね。
その英雄神たちでも倒せなかったアメノカガセオを、なぜか機織の神のシトリノカミが倒せたっていう話があるらしいんですよ。
で、宮水神社の御祭神がシトリノカミなんです。
その宮水神社に若かりし頃の三葉の父が民俗学の研究者としてやってくるわけですよ。
その若かりし頃のパパとママの神様談義がとてもとても萌だった。
・天孫系の神様を祀っている神社なのに、パパが宮水神社を訪れたとき、耳にした祝詞が「出雲系」の祝詞だった。
え?
天津神を祀ってる神社なのに、出雲の祝詞採用しちゃった?
と、パパは思うわけです。
でも、なぜなのかはママも分からないという。
なぜ分からないかというと「繭五郎の大火」でいろんな文献が焼けてしまったから。
ママ曰く、そのタイミングで焼失した祝詞を何かを参考にして再生しなければならない状況になって出雲から借用したのだろう。おおらかですよね、と。
そこで、パパの中でひとつの仮説が生まれる。
・200年前、出雲の祝詞を導入して違和感を覚えなかった、むしろしっくりきていたということは宮水神社の信仰の精神にそもそも国津神と通ずるところがあったのではないか。
・シトリノカミ(天)は天津神系だから、国津神と通ずるところがあるというのは考えにくい。しかし、そのシトリノカミと対になるアメノカガセオだったら国津神と通ずるところがあったのではないか。
・アメノカガセオは星の神だから天津神(のはず)
けど、天津神たちと敵対してた、服従しない反抗する神だから国津神のような性格を備えていた、かも。
(ほかにも天津神系の人たちが国津神系になることは神話の中でちょいちょいある)
てことは、あれ?
【仮説】
宮水神社、もとはアメノカガセオを信仰する星神社だったんじゃね?
という仮説がパパの頭の中に浮かぶ。
ーーー
・古語でヘビ=カガシ
・カガセオはカガシの転訛で天ノカガシオは空のヘビ=竜
・アマノカガセオは星神でありながら竜。
・ひょっとしたら組紐は元はヘビを表すものだったかもしれない。
ーーー
そんな村に隕石が落ちる。
・糸守湖は隕石湖。隕石が落ちてできた湖。
・星神信仰を持つ村に、星が落ちて、大災害が起きる。
・神に裏切られたという形だったかもしれない。
・その穢れを祓うために信仰の取り替えが行われたのかもしれない。
・それまでのアメノカガシオ信仰が捨てられ、その天敵であるシトリノカミが導入されたのでは?
ーーー
という経緯があって御祭神がシトリノカミ(天)となった宮水神社だからこそ、出雲系(国)の祝詞が採用されても違和感がなかったのではないか。
というのが、パパの仮説。
その説を聞いて、ママも、「論理に矛盾はない」という。
けど、巫女の勘として肌感覚としてしっくりこないなぁ・・・。
っていう、若かりし頃のパパとママが話に花を咲かせるというシーンがあったんですけどね。
説明長くてついてこれなかった人もいると思いますが、そういう人はもう読んでいないと思うので(笑)
ここまで読んでる人は、けっこうこれ系の話テンション上がる系ですね?さては(笑)
まあ、この説自体も楽しいんだけど
この説が合ってるか間違ってるかっていうこともさることながら、
「神に裏切られて信仰対象の取り替えを行ったのではないか」って発想をするパパがまさに信じようとしていたものに裏切られたという思いを味わう展開とかがあったりしてね。
なかなかなかなか興味深いスピンオフ小説でした。
ーーー
てゆーか、これだけ裏設定考えてて、映画を作るにあたってはばっさりカットするってクリエイターの頭の中ってすごいな!
入れ込みたくなるじゃんね、こんなに細かく考えてたら。
(はじめからこの部分は小説でって思ってたのかな)
いやはや、新海監督に興味津々になった瞬間でございました。
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