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トラウマの蓋がゆるむということ

私の人生の殆どは希死念慮に支配されていて、それを上手にコントロールすることによって、穏やかに社会に溶け込んでいる。このことを悪いことだとは思わない。自宅の床下に死体が埋まっているのを分かっていながら家族団欒を楽しむような不気味さはある。しかし、夢の国の塀の向こうで戦争が起こっていることを知っている冷静さみたいなものを自負している部分もある。一度死に損なったからこそ手にした眼差しは私の歩調をより強く確かなものにした。

トラウマは克服するものではなく、上手に蓋をして鎮めておくものであり、異物感はそれとして放っておくのが賢明なのだ。いちいち閉じたり開けたり見せびらかすのは、現在の自分の不調がそうさせているだけだと気づかねばならない。私の場合は、ついつい体調が悪い時に人生を恨んでしまう。トラウマの蓋がゆるむせいで、生々しい記憶が身体の隅々まで再充填されて、怒りが込み上げてくる。大体こういうトラウマはセクシャリティが絡んでおり、家族やパートナーへの憎しみが過去のものか現在のものか分別がつかなくなってくる。自分自身の混乱に気づかずに感情のまま不満をぶちまけても、トラウマ以後地道に積み上げてきた外界の崩壊にしかならないので、どんなに辛くても「私は疲れている」「トラウマの蓋がゆるんでしまった」と自覚して、感情の発散だけは控えておくべきと心得ている。トラウマに引き摺られて、現在の環境を穢すのは得策ではない。

「過去をすべて話すこと」はカウンセリングにはならないことが多い。重たい蓋を開けてしまうと、その人は必ず壊れる。壊れたものを再構築するには時間も覚悟も必要だ。大きな手術が必要な場合を除いて私は安易に話させないし、逆に自分自身のトラウマにもなるべく触れないように生きている。誰もが会社に行かねばならないし、子育てをしなければならないし、今の生活を守らなければならない。できれば笑って暮らしたいと思っている。「どこまで蓋をゆるめても平気か」を判断することも、話を聞く側の大事な仕事である。一緒に泣くことほど無責任なことはない。

そうは言っても、私のトラウマは相当手強い。蓋がゆるむと眠気とともに数日間の記憶がなくなるなんてことはざらにある。なんとなくの意識は保っているが、リアリティも時間感覚も感情もそこに乗ってこないため「夢だったか現実だったかテレビだったか人から聞いた話だったか」が曖昧になる。昔は「なぜここにいるのか」思い出せないなんてこともあった。これは全てトラウマから身を守るための防衛反応である。数日間の記憶喪失については諦めがつくが、それ以前の生活や目標や気持ちがどのようなものだったのか思い出す作業は、いまだにとてもしんどいものである。

私の人生は定期的に分断されている。リアリティを無くした置いてきぼりの私と、進んでいく時間軸にとりあえず乗せられた私との間に、人格の断絶は幾度となく起きた。今ここを見失った。そうしていつも努力や人間関係は振り出しに戻った。トラウマは人格のまとまりを失わせるのだ。幸い、風邪を引いた時くらいしか私のトラウマの蓋はゆるまなくなったので、穏やかな日常の境界線を歩むことができている。自分でゆるめようとする人がいたとしたら、現在の自分の困り感にまず着目するといいだろう。

トラウマの内容が重いとか軽いとかは他人が判断するものではない。症状の出方に関してはその人自身の感受性の強さや知能が関係していると思う。たとえば私は毎朝同じ空の美しさに感動するし、人間の心の汚さには簡単に絶望する。小さなショックをショックだと言えなかったことが蓄積するだけでも、心の中にしこりは残っていくものなのだ。

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