修身、治人、止於至善。模範になりうる人はどこに?

若者は言う、「社会の役に立ちたい」「世のため人のために働きたい」「立派な人間になりたい」そうするように教えられたから。

しかし、模範になるような”日本人”は一体どこにいるのか。辺りを見渡して目に入るのは、ちゃらんぽらんで教えられたことを復唱するだけの似非功利主義者ばかり。健全な民主主義、功利主義の遂行に必要とされる予備知識のあまりの膨大さに尻尾を巻き、全貌を知ることを諦めた者たち。

地元に居場所は見つからず、働き方が定まらず、世間の流れも二転三転、老人は死なず、仕事は機械がしてくれる。

女は社会に出て子を産めと言われ、男は家族に優しく金を稼げとばかり言われる。多様性とは矛盾を抱え込むことではない。多様性とは二枚舌を使うことでも精神分裂症でもない。

理想を掲げ現実を選り好みし、自然をどう欺くか、そればかり考える、指針なき社会。

「修身学を取り戻せ」や「儒学の復活」など修正主義的に戦前を懐古するわけではないが、若者が敬うべき大人というモノは一体どこにいるのか

現代において「年長者を敬う」という感覚を自然と身に着けることは甚だ難しいことのように感じられる。若者に対して老いを中和するための言い訳のようにさえ聞こえてくる。

このままいったら私が年老いた頃には、街中でいつ若者に足蹴にされるかとひやひやして過ごす、そんな老人ばかりになるかもしれない。

この先どうなるか、全ては自分たち次第



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