「は」場体論|日本語の最深部|心道

「は」の機能は多岐にわたる。

日本人は「は」に柔軟性を認めることで
あらゆる文、言論を『真実』とすることができる。

これはまさに和の心そのものである。

逆に、『虚偽』とすることも思いのままであり、

この機構こそが日本語の強さであり、危うさであると主は思う。


1.主*1は不可分である。

唯一、言論的な分断を起こさない状態は「沈黙」である。

シーーン カサカサ シーーン 
ゴソッ シーーーーン

そこにアイコンタクト、以心伝心、身密、意密が加われば、
これは至高の信愛に他ならない。
主との信愛、他己の信愛はこの状態で最上となる。

*1:今この時、筆者は「不可分なナニカ」と一心同体となり、記述を行っていることを確認されたい。
上記の記述を行ったものが主体であり、この記述が述体である。

2.三体構造「主体」「は」「述体」

 ①主体ー②「は」ー③述体
「は」の前が主体、後が述体である。

あらゆる場面において、主体と述体は表裏一体である。
この、あらゆる場面というのがあらゆる「は」である。

場面を定義する存在という意味で、
以下では「は」を場体と呼ぶ。

この三体であらゆる文章・言語・現象は構成されている。

そして、その真偽は場体の気分しだいである

例えるならば、

【命題「1=5」】
これを分解すると ①1 ②= ③5 となる。
真にすべく場体の内容を改変する。

②「=」→「≠」,「×5=」,「+4=」or その他

こうしてこの命題は『真』となった。

まぁ、そんな感じ。

場体はアスペクト、側面、観点、視座、見方とも言い換えることができよう。
おもいやり・心遣い・気遣い・心配りを可能にするものが場体である。

あの時あなたから見ればどうだったか、
その時その人から見てどうか、

このような視点の転換は「柔軟な場体」「流動的場体」によってなされる。

述体の内容が等しく、主体が異なるとき、
場体で帳尻を合わせることでそれは真実になるのだ。


3.場体固定の下、主体の数と述体の数は等しい。

個別の意識を主体とする時に、
   述体たる現象は個別のものとなる

一者の意識を主体とする時に、
   述体たる現象は一つになる。

これはすごいこと言っている。

主体を選択し、それに応じた特異的述体を導く機能が
それぞれの「は」、それぞれの場体
にはあるということだ。

つまり、われわれが各々を主体とすることを止めれば、
われわれは大いなる「われ」として一つの述体を営むことになるということ。

それが良い悪いではなく、
おそらく、原理的にそうなのだ。

4.述体固定の下、主体と場体で変容するのはどちらか

我が強い場合、場体が変容する。
その時、「場体の義」の不安定性から他者との間に軋轢が生じる。

我が適応する場合、場体は変化しない。
この時、「場体の義」が一貫しており、
他者とのコミュニケーションは円滑になる。

まぁ、そんな感じ。

5.あらゆることを『虚偽』にしたい場合

これらの述体を『虚偽』とすることは容易である。

虚偽だと思えば良いからだ。

しかし、猜疑心を抱くことは「は」の機能が比較的緩い言語においてあまり有用ではない。

なぜならば、日本語の「は」は猜疑に値しない場合が多いからだ。

「(私は)お腹すいた~」に真偽も何もあったもんじゃない。

日本語ではとりあえず共感を示しておくのが吉である。

日本語とはそのような言語なのだから。


6.真偽・虚実の判断の主体

私は、判断の主体はパラダイムだろうと思う。

どのパラダイムに属しているかで判断が変わる。

私は、判断を厭うパラダイムに首ったけ。

個人的には判断が「判断」から「好き嫌い」になるまで
なるべく情報収集に徹した方がいいと思う。


7.おわりに

これが私の優しさの秘訣。

とりあえずなんでも三つに分ければいいみたいな風潮、嫌いじゃない。

けど、実証主義もほどほどに。


2021.3.7.夜 是断

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