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てのひら随想 梅の実
八十代も半ばを越えた老母の判断力、思考力、そして体力が時の経過とともに力を失いながら「出来ないこと」がひとつまたひとつと増えていく。いままで長年普通に出来ていたことが出来ないことに変化していく。
思い出も自身の意思とは関係なく、選別され、残り、消える。
老いは、親が子に身をもって衰弱や死を示す最後の教育、という言葉を見たのは何時だったか何処だったか。
今年は梅の実がどこも近年稀にみる不作と
みたび お盆にぼんの話など
連休初日の朝ほど気分の良いものはない、ということで、唯一の趣味といってもいい「ぶらっとひとりドライブ」にでた。朝の早い時間にコンビニでサンドイッチとコーヒーを買い、琵琶湖岸や田んぼに挟まれた県道を好きな音楽を聴きながらのんびりと二時間ほど走る。
県道の、ぼんが死んだ場所を通ったとき、いつもは思い出さないのに、ふと彼のことが脳裏に浮かんだ。
「おにいちゃん」と、声ではなく、ぼくの魂の端っこの方をツン
田中さんは山田さん(仮名)かTさんかAさんか。
怪談本には体験者の名前を別の苗字などを使って(仮名)としたり、アルファベットのイニシャルで書かれたものが多いのはご周知のとおりですが、双方にそれぞれの味わいがあり、どう書くかはつまるところ書き手の好みなのだと思っています。そのどちらかに統一されている作家さんもいれば、作品(本)によって書き分けている作家さんもいらっしゃると思います。
また読者側にも、どちらの方が好みだとか、内容にすっと入り込めると
掌編小説 猫 (2)
まさか苛めているとは思わなかったが、気になって近づいた。
お姉さんは私に一瞥をくれ少し微笑んだように見えたが、すぐに視線を下に向けた。
お姉さんはしゃがんでスカートの両端を摘み、ハンモックのようにして二匹の仔猫を包んでいた。
お姉さんの視線は仔猫に向けられていたが、仔猫の可愛さに心を奪われているという風でもなく、なにも見ていないような、目の前の仔猫ではないなにかについて深く考えているように
掌編小説 猫 (1)
猫
一匹の猫が公園のベンチに寝転んで毛づくろいをしている。
「今日の午後からまた台風が来るぞ。安全な場所に隠れるんやぞ」
ほんの一週間ほど前にも大型の台風がきたばかりだ。怖い思いをしたはずだから猫とてそのことを忘れてはいまい。
すると、猫は案の定余計な心配だとでもいいたげに、曇り始めた空を見上げて大きな欠伸をひとつした。
猫の、欠伸の前の一瞬の、泣き笑いのように見える表情を見たとき、私
夏の終わりのじゆうけんきゅう(1)
突然だが、かれこれ50年前、昭和四十年代の終わりごろの話になる。
考えてみれば五十年前ということは「半世紀」も前ということで、そんな大昔に小学生として生きていた子どもがおっさんとなって今も現存していると思うと、自分のことながらなんだか不思議な気持ちになる。
この不思議な気持ちは、ぼくくらいの歳の大人にならないとわからないものだろう。
当時ぼくは小学校の三年生か四年生。
と、少々「時代」を強調した出
夏の終わりのじゆうけんきゅう(2)
夏休みも残り四日ほどになって、小3のぼくは頭を悩ませていた。
自由研究が少しも進んでいなかったのだ。というより、その時点で何をするかも決まっていなかったのである。
「自由~」なのだから、研究ばかりでなく、実験や観察や、工作や絵画などでもいいわけだが、如何せんあと四日でそこそこカタチにする必要がある。
空き箱をいくつか適当にセロテープでくっつけて、画用紙で目鼻を作り、「未来ロボット」をこしらえるか、
夏の終わりのじゆうけんきゅう(3)
かくして自らの身体をはった自由研究でお茶を濁したぼくだったが、クラスのなかにはやはりどうしても夏休み最終日に間に合わなかった友人たちがいた。
男女合わせて五人ほどだったろうか。
夏休みが開けた初日にそれぞれ研究の模造紙や工作を持ち寄り、詳しい内容は端折って、どんなことをしたのかだけを教室の端っこの列からひとりずつ順番に発表することになっていた。
ぼくは『アシナガバチにさされてからなおるまでのけんき
夏の終わりのじゆうけんきゅう(4 最終回)
一日遅れで提出する自由研究は、教卓とは別に教室の前にある先生の机の上に置いておくことになっていた。
Aくんは先生の言いつけ通り「家のちかくのこんちゅうさいしゅう」の箱を先生の机の上に置いた。
さっそくそれを見ていた他の男子が「どれどれ?」という感じで、蓋を開けてなかを覗く。
すると、その男子は「うっ」という声にならない声を漏らすのと同時に、大きな声で「おいおいみんな見てみ」と他の男子を呼んだのだっ
あらためて給食のはなし。随筆のような
定期的に驚くのが、ツイッターのタイムラインに未だ(定期的に)「小学校の給食の完食強要はひどいじゃないか」という呟きがあがってきて、未だかなりの数の共感者が「そうだ! ひどい」と声をあげるということだ。
それも、ぼくと同世代がつらかった昔を思い出して、ということでなく、いまの一部の子どもたちも同じようなつらい思いをしているということに愕然とする。
最初に、定期的に驚く、と書いたが、それは定期的に
怪談琵琶湖一周より「すじえび」GWver.お読みいただいておおきにでした。
ふと思いついて始めたGWの余興も最後の一話となりました。先の見えない不安定な日々ですが、なにがあれしましたら、ぜひ一度ゆっくり琵琶湖に遊びに来てくださいね。
「すじえび」
滋賀県の北部に古戦場として知られるS岳がある。
そのS岳から数キロ・メートル南に位置する、とある漁村に、かつてこんな話が伝わっていたという。
その昔、琵琶湖に沿うようにして在るその漁村では、雨風の強い夜は、どの家もき
怪談琵琶湖一周より「湖岸の石橋」GWver. (おひまつぶしに)
この話を書いたとき、琵琶湖に流れ込む河川の数を調べてみたら大小合わせて四百六十本とありました。つまりその数は、琵琶湖を一周する時に渡るおおよその橋の数でもあります。
[湖岸の石橋」
Sさんが免許を取ったばかりの頃だというから数十年前のことになる。
ある夏のこと。
Sさんは父親の軽トラックを借りてドライブに出かけた。
とくに目的もないまま琵琶湖に沿って延びる浜街道を走った。近いうちに