おばあちゃんの人生
おばあちゃんが亡くなった。
半年くらい前から、意識もなく、脳死状態だったので、いつ最期になってもおかしくない状態だった。
私はもう何年も会っていなかった。
少しボケていたこともホームに入っていたことも知らない。
年末、これが最後とわかりつつ、お見舞いに行った。
コロナ感染予防のため、会えるのは15分のみ。
病室に行ったら、パンパンにむくんだ顔とつながれたチューブ、私が知っているおばあちゃんとは違っていた。
おばあちゃんは寝ていて、15分間目を開けることはなかった。
だけど、話しかける声が聞こえてるみたいに、少し口や手が動いていた。
また年明け来るね。と言って、私は病室を出たが、年始に行ける時間がないまま帰った。
もうすぐ会えなくなるのは、わかっていたのに、あの姿をみることが嫌だったのかもしれない。
私は正直、父方の祖父母は好きではなかった。
とても田舎なため、男尊女卑的思想が強く残っていて、亭主関白な祖父と言うなりの祖母。
二人はいつもケンカばかりしていた。
私には兄が二人いるが、男である兄ばかり可愛がられ、私はいつもおまけみたいだった。
おこづかいも兄ばかり、お出掛けも兄ばかり、田植えのお手伝いも女だからと一回も行かせてもらえなかった。
そんな感じで、祖父母のもとへ行く度に女であることを突きつけられ、蔑ろにされるので、行かなくなった。
父と母が離婚したあとも、兄たちは毎年何かある度に行っていたが、私は行かなかった。
その後、大学生を卒業して宮城に移住してからは、ほとんど会ってない。最後に、祖母が元気なときに会ったのはいつだったのかも思い出せない。
私は昔から、おばあちゃんがあの家にいる理由がわからなかった。なぜ、あんなに蔑まれて、働かされても、おじいちゃんと共に暮らしているのか。
おばあちゃんの人生を聞きたかった。
今度会ったらゆっくり聞いてみよう。そう思っていたけど、聞くことなく終わった。
学校で働いていて、よく、教師になりなさいと言われてた。しっかり、きちんと、女性らしく。そんな言葉を投げ掛ける人だった。
退職したあとは、パチンコに入り浸り、畑でいろんな野菜を育ててた。
大好きな畑作業の中、熱中症で倒れて、数時間後に搬送されて、意識不明になった。
そのあと、回復したけど、認知症が進み、施設に入ることになって、数日後に痰が喉に詰まって意識不明のまま、亡くなった。
なにも言い残すことができないくらい突然の出来事に、どう思ったんだろう。
おばあちゃんの人生は、幸せだったんだろうか。
父方の祖父母の家は、元披差別部落だ。
祖母がお嫁に行った頃は、まだ大変だったと聞いたことがある。
あの家で、どんな風に思いながら、暮らしてきたんだろう。
もう知ることは出来ないのが、すごく寂しい。
火葬場で、お骨を拾い集めるときに目にする、あの、あっけない人間の身体。骨壺に入れるときの、骨が砕ける音。鼻を覆いたくなるような独特な匂い。式場の人の、慣れきった仕草と表情。
人間の身体って、こんな風に出来てるんだ。残る骨、少ないなあ。人間ってほんとに脆いなあ。と、骨を眺めながらぼーっと思っていた。
式中、特になにも感情はなかったが、骨壺のなかで骨が砕かれていくとき、自然と涙が溢れた。
焼け残った骨すら、バラバラになって、もう終わり。
いつか私がこの姿になったとき、骨のほかに、何が残っているんだろう。
残された人生を、どう生きていけるか。
あの人はきっと人生に満足してただろうな。
楽しい人生だったろうな。
一緒にいて楽しかったな。
そんな風に、思われる生き方でありたい。
いつも周りにいてくれる人たちに、ありがとう。
生きてるうちにたくさん、話したい。笑いあいたい。
出会えている今、目の前にいる今しか、聴けないこと、言えないこと、出来ないことがたくさん。
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