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茶道の記憶

高校生の頃、茶道同好会に入っていた。
といっても、活動は月に2回だけ。中学生の頃は、テニス部に入っていたが、段々と練習が嫌になってしまって、幽霊のように部活を去った。しばらくは、もうあの苦しい練習に行かなくてもいいんだという喜びと開放感に包まれていたが、そのうち、何もない放課後が虚しくなってしまった。そういう訳で、高校では、月に2回という緩さに惹かれ、茶道を始めることになった。

お菓子とお抹茶を楽しみにしているだけの、やる気のないヤツだったが、できないことができるようになるのはそれなりに楽しかった。3年弱続けて、何とか基本のお点前ができるところまではいったのだが、終始「次は何をしたらいいんだっけ、」と考えていた。学園祭で、お茶を振る舞う出し物をした時、来てくれた友達に後から写真を見せてもらったら、とんでもなく切羽詰まった顔をしていた。「こんな顔でお茶を出していたのか…」と、情けなさと申し訳なさが込み上げたことを覚えている。

そんなことはもうすっかりと忘れて、お茶の頂き方すらも忘れてしまっていたのだが、先日、映画「日日是好日」を観て、眠っていた苦い思い出が蘇った。と同時に、

「お茶はね、まずカタチなのよ。はじめに、カタチを作っておいて、その、容れ物に、後から、心が入るものなのね。」

この言葉に、妙に納得して、心が癒されていくのを感じた。
カタチを、まず作る。そこに、心を込めていく。仕事みたいだ。なんだかよく分からないままに、言われた通り動いているうちは、他のことを気に掛ける余裕などない。まだそういう段階というだけのことだ。「道」と名のつくものは、茶道にしか触れたことがないが、この映画を見ていると、なるほど茶道は「道」なのだと思わされた。型を習得した先に、心がスッと研ぎ澄まされる感覚を覚えて、創意工夫を凝らす楽しさがあるんだろうなと思う。

ところで、茶道は、招かれる方にも心得が必要である。私は、正直に言って、お茶を頂いているときも、「次どうしたらいいんだっけ?」「一挙一動を見ておかなければ」ということばかり考えていた。しかし、社会人になって、一日茶道教室に参加したときに、驚きの教えを頂いた。
「亭主の心配りを見過ごさず、一つ一つ味わうことも、お客の務めである」
掛け軸、お花、お茶碗、何から何まで恭しく「ほぅ…」と拝見するのは、もちろんそのものに対する敬意もあるけれど、亭主のおもてなしへの敬意と感謝なのだそうだ。
これを聞いてから、レストランに入った時に目に入るものが増えたし、友達がお土産をくれた時は、「旅行先で私のことを思い出してくれたんだ」、実家に帰った時は、布団からお日さまの匂いがすることに「わざわざ干してくれたんだ」と、ありがとうとハッピーが増えた。

今ではすっかり作法も忘れて、お菓子の袋を開けた瞬間に食べ切ってしまうような、ガサツな生活を送っている。小さなお菓子をさらに小さく切って、大切に大切に頂くなんて、そうそう続けられるものではない。それでもたまに、こうやって茶道の切れ端を思い出すと、今日はいつもよりちょびっと、丁寧に生きてみようかなと思うのである。


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