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傷つける力を知らないほうが、よっぽど怖い。
「ボクシングやってるの…?怖いね…」
大学4年間をボクシング部のマネージャーとして過ごし、社会人2年目の冬の初めからジムに通ってボクシングをやり始めた私は、たびたびこういった言葉をかけられることがある。
言われるのももう慣れたもので、一瞬は嫌な気持ちにもなるが「殴ったりなんてしないですよ」と笑顔で受け流すようになった。
たまに「なんのためにやっているの?」と聞かれることもある。別に、なんのためでもない、というのが正直なところだ。社会人になって意識的にじゃないと身体を動かさないからとか、元々部活のマネージャーをやっていたからというのはたしかに大きいが、これは決して目的ではない。誰にも言ったことはないが、たぶん私は、自分がものを殴ったらどれくらいの力があるのかを純粋に知りたかったのだと思う。
学生の頃から「ボクシングやっている人って怖いよね」と言われるたびに、どこか不思議な気持ちになっていた。彼らは日頃から殴り殴られ、自分のパンチを磨くトレーニングをしている。全員が全員、善人だとは思わないが、少なくともそういった人間はむやみやたらに人を殴ったりはしないと思っていた。自分がものや人を殴ったら、どれくらいの威力があるかを知っているはずだからだ。
だから、私は怖いと言われるたびに、「自分が本気で殴ったときにどれくらいの威力を持っているのか知らない人の方が、よっぽど怖い」と心の中で思っている。自分が本気でものを殴ったら、対象物が壊れるのか、なんともないのか、それが人間ならどうなるのか。それを知らずに、ついカッとなって腕を振るう人を想像したとき、私は怖くてたまらなくなる。
これは別にボクシングをはじめとした格闘技に限る話でもなく、日頃の会話の中でも同じだと思う。自分が発した言葉の重みや、その威力、破壊力を知らない方がよっぽど怖い。
ボクシングのパンチが拳ならば、言葉はきっとナイフだと思う。拳は硬いものに当たれば痛いが、ナイフは自分に痛みが走ることはない。切ったという感覚もないほどに切れることがある。一度傷つければ、それが拳によるものでも、ナイフによるものでも、傷つけた事実は変わらない。「間違えました」なんて口が裂けても言うべきじゃない。
だからこそ、いかなる時も、自分が人を傷つける力があることに、人は怯えていなくてはならないと思う。
自分はこの拳で、この言葉で、人をたやすく傷つけることができてしまう。誰かを喜ばせたりするよりも、どうしたら傷つけられるか、そういったことを考える方がよっぽど簡単な世界に生きている。そんな世界に生きている以上は、常に怯えながら慎重に言動を選んでいく必要がいつだってあると私は思う。
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