ばらまかれた創作への爆弾、そして祈り—ヨルシカ『盗作』の解剖
発売後すぐにこの記事を書き始めたはずなのに、気づけば二ヶ月もタイムオーバーしていた。この夏聞いた中で一番ゾクッとした怪談である。noteは初投稿であるが、今回は先日発売されたヨルシカの3rdフルアルバム『盗作−plagiarism-』(以下『盗作』と表記)についてだらだらと語っていきたい。
私のヨルシカとの付き合いはほんの半年ほどのものだ。三秋縋氏のツイートがきっかけだった。音楽に疎い私は、そんなアーティストが現在進行形で耳目を集めていることなどまったく知らなかった。二月まで内定を得られないまま、最後の綱であった企業面接へと赴く電車に揺られながら、サブスクで曲を垂れ流した。それが私とヨルシカの邂逅だった。
……いや、前置きはいいから、とにかく語ろう。この記事はヨルシカ『盗作』の考察、いや正確に表現するならば解剖を目指したものである。「解剖」という表現でこの記事がどのような性質のものかが垣間見えるだろう。それを聞いて身構える方もいるかもしれない。ヨルシカのコンポーサーであるn-buna氏はこう語っている。作品からもたらされた感動に対して人はなぜその理由を探し求めるのか、と。またYoutubeで公開されている『盗作』のMVで作中の登場人物である音楽泥棒の口を借りて、「ただ一聴して、一見して美しいと思った感覚だけが、君の人生にとっての、その作品の価値を決める」、とも。私がこれから書き連ねることはそれとまったく逆行する内容を多分に含んでいる。この記事で私は、ひとつひとつの楽曲に対してはそれほど目を向けないで、『盗作』という物語自体を作品の外側に目を向けて解釈していきたい。外側とはつまり、実在の「ヨルシカ」自身、あるいはn-buna氏自身を志向するということである。その意味でタイトルに「解剖」という若干仰々しいニュアン
スを含んだ言葉を選んだ。なのでn-buna氏の言うように、ただ彼らの曲自体に価値を感じていたいという人間にとって、こんな草花を思弁と論理で塗り固めたような記事は邪道に他ならない。今すぐブラウザバックすることを勧める。もうひとつ、かなり手癖が目立つ記事なので、小難しい議論が苦手で核心的な話だけが知りたいという方は三節目だけ目を通して欲しい。以上である。それでは始めよう。
1 ,盗作という行為について
——客観的な事実だけなら、現代の音楽作品は一つ残らず全てが盗作だ。意図的か非意図的化など心持ちでしかない。メロディのパターンもコード進行も、とうの昔に出尽くしている。
思想犯というテーマは、ジョージ・オーウェルの小説「1984」からの盗用である。そして盗用であると公言したこの瞬間、盗用はオマージュに姿を変える。盗用とオマージュの境界線は曖昧に在るようで、実は何処にも存在しない。逆もまた然りである。オマージュはすべて盗用になり得る危うさを持つ。—— ヨルシカ−思想犯(OFFICIAL VIDEO)より引用
小説『盗作』の冒頭で音楽泥棒の主人公は、音楽のオリジナリティなどは幻想だと不遜に告げる。程度の差こそあれど、全ての音楽作品は盗作だ。まるで王様に向かって「王様は裸だ」と真実をありのまま告げる少年のように、音楽泥棒は嘯く。考えてみれば、なにもそれは音楽作品だけに限られた話ではないだろう。小説、詩、絵画、映画、漫画……、ストーリーも表現手法も技術も二千年以上の時を経て確立されきっているのだ。それは学問、ひいては思想においても例外ではないだろう(「すべての西洋哲学はプラトンの脚注にすぎない」というホワイトヘッドの言葉はあまりに有名だ)。
この瞬間にも量産されている作品のすべては所詮、既存作品を模倣したパッチワークにすぎない。それはあまりに明白な事実である。ヴォルテールがいみじくも「独創力とは思慮深い模倣に他ならない」と書いたように、他人の作品や技術を模倣せずに作品を作成することなど無理な相談であるし、ましてや素晴しい作品を創り上げることなど絶対に不可能だ。では、それらはすべて盗作品なのか?
私のひとまずの答えは、そうだとも言えるし、必ずしもそうとも言えないというひどくつまらないものである。生み出された作品が、いわば「あらゆる透明な模倣の複合体」であるとしてもその作品がある個人の手で生み出された以上、その作品にはある種の固有性が付与される。それは確かにオリジナリティではあるが、しかしそのオリジナリティが作品の価値に寄与することはなにひとつない。その種のオリジナリティはあくまで作品の社会的な信用性を保証するだけの最小値としてのオリジナリティとしてしか作用しえないのだ(いくら私が人に「私は他の人間とは違うあり方をした特別な存在だ」と語ったとしても、その人は気の毒そうな笑みを向けてこう答えるだろう。「君の言っていることは私にはわからないね。そう言えるのは決して君ではなく、他の誰でもなく、この私だけなのだよ」*1)。作品の価値として作用しうるオリジナリティに達しない以上、模倣の複合体としての「作品」という事実が宙吊りになり、その事実だけが焦点化されることもありうる事態ではあるし、『盗作』ではこの事実だけがセンセーショナルな形で取り立たされているわけである。
まとめよう。現代の全ての作品たちは盗作か、否か。それは常識的な(あるいは日常的な)視点で世界を捉えれば確かに違う。しかし、外側に立ったときにすべての作品が模倣の複合体であるという事実を否定することはどうやっても不可能だ。その事実を突きつけられ、後に触れることになるオスカー・ワイルド(彼もまた剽窃家であるとの誹りを受け、またそれは彼の作品の特質でもあった)のように「私はすでに自分の所有物を使っているだけだ。いったんある言葉が公に公刊されれば、それは皆の所用になるのだから*2」などと嘯ける作り手がいくらいるだろうか。もちろん、意識的か否かで差はあるのだろう。だがその事実は、ある種の創り手にとって呪いとして作用することになる。程度の差こそあれ、創作者たちは誰もが誰かにとっての盗作者である。それは論駁しようがない事実だ。
今ここに、音楽泥棒がばらまいた無数の爆弾は音楽家たちの垣根を超えて、創作を志す者たちの頭上で炸裂する。吹き飛ばされるのはなにも爆弾をばらまいた張本人とて例外ではないだろう。
2,ヨルシカのジレンマ
——それでも、作品の価値は他者からの評価に依存しない。盗んだ、盗んでないなどはただの情報でしかない。本当の価値はそこにない。ただ一聴して、一見して美しいと思った感覚だけが、君の人生にとっての、その作品の価値を決める。「盗作品」が作品足り得ないなど、誰が決めたのだろう。——— ヨルシカ−盗作(OFFICIAL VIDEO)より引用
『盗作』の主人公である音楽泥棒の男性は、n-buna氏がモデルになっているのでは? けだしこれは、『盗作』というアルバムを聴いた誰もが抱く着想だろう。前作の『僕は音楽を辞めた』『エルマ』でも氏の思想や体験が楽曲や世界観のモデルになっていることはインタヴューで明かされているが、今作は前作の比ではなく作品の登場人物がいわば実存(単なる現実存在としての意味)としてのn-buna氏とオーバーラップしていると私は感じる。
その証左として、『爆弾魔』や『花人局』といった曲にコーラスという形でn-buna氏の歌声が加えられている曲が今作では目立つという点*3、公式ホームページで公開されているインタヴュー記事のn-buna氏の受け答えに「俺」という一人称が不自然な形で混入するという点などが挙げられる。彼は折に触れ、作り手の情報など気にせずに作品だけを評価してほしいと語る。作者の情報などに頓着せず作品だけを鑑賞して、そして感動してほしいのだ、と。
しかし、立ち止まって考えていただきたい。『盗作』のような作者の思想を濃厚に混ぜ込んだような作品を世に出しておきながら、創作者の情報をまったく無視してくれと要請するのは少しおかしくはないか? さらに突き詰めて考えるのなら、n-buna氏が語るヨルシカの理念は、そのような作者の要請自体が作品にとって外的なものであるはずなのだから、その主張をすることでその主張自体を否定する自己撞着に陥っていると論理的に考えるべきなのである。このような意見を取るに足らない揚げ足取りだと嗤われるだろうか。それでも別に構わない。私はだからといって直ちに沈黙こそが美徳だ、などと主張したいわけではないし、それにn-buna氏はこうも語っている。
ヨルシカ自体がひとつの作品であるのだ、と。そして氏はオスカー・ワイルドの耽美主義的格率、「人生は藝術を模倣する(Life imitates art)」(あるいは「自然は藝術を模倣する(Nature imitates art)」とも。かの有名なアリストテレスの模倣(ミメーシス)論、「藝術は自然を模倣する(Art imitates nature)」の転倒である)を引用し、彼自身がワイルドを模倣しているとも言っている。ワイルドを語る上で欠かせないエピソードが当時では重罪であった同性愛による投獄事件である。罪人として投獄されたというエピソードにより、ワイルドは自らの人生を真に藝術作品たりうるものとして仕立てあげた(思えば、彼の模倣を自認するn-buna氏が犯罪をテーマにした作品を世に出すというのは、あまりにも必定なことだったのかもしれない)。
話を本筋へと戻そう。n-buna氏はヨルシカどころか、自らの実存さえも作品に見立てることによって、私が先ほど提起した矛盾を回避している。なるほど、これは美しい帰結である。ではこの解釈を取り入れたことで、前述した疑問は本当に解消したのだろうか?
残念ながらそうではない。ここでカテゴリーの違う新たな問題が鎌首をもたげてくる。その問題を端的に言い表そう。「作品」という定義を実存の自己にまで拡張したことによって、今度は「盗作」という作品に内在していた美学的問題点が作品という虚構の垣根を超えて実存の私にまで流入してしまうのである。まるでデータ上の存在だったコンピューターウィルスが現実のものとなって猛威を振るい始めるという筋書きのパニック映画のように。それがもたらすのは誰かの模倣によってしか生きられない/作品を残せないという前作でエルマが抱えた問題の反覆と、それによって被る「他者の生を盗作した」というより直接的で実存的な罪悪の意識である。
それだけではない。結局、創作者の情報を度外視してくれという要請は正当化できないのだ。自己やバンドを作品として見立てたとしても、上記の要請自体が論理的に正当化されることはない。むしろ問題は真逆である。つまり他者の鑑賞によって作品は作品たりうる(とはいえこれは少々短絡すぎる前提である。自己を満たす目的のためだけに産出され、消費されるものが「作品」たりえない謂れはないからだ。ちょうどn-buna氏が引用したヘンリー・ダガーがいい例だろう。では作品を“藝術“作品に概念拡張するとどうだろう? アートワールドという概念を念頭に置けば、“藝術“作品たりうるには客観的な尺度の介入が必要十分条件のように思えるが……)のに、それ自体が鑑賞を拒否しているという矛盾構造が出来上がってしまっているのである。この矛盾はシンプルであり、それゆえ根深い問題だ。
こうして、ヨルシカの理念を巡る問題はジレンマの只中に漂う運命になってしまう。問題の単純な解決を目指していた当初よりも状況はさらに悪化したとさえ言えるだろう。残念ながらn-buna氏の思想は『盗作』の性質も合わせて吟味するならば、論理性にいささか欠けてしまうというのが私の見解である。
わだかまりを抱えながらも、ここで一歩下がって本質的な問題を再び問い直そう。本当に『盗作』はすべての作品は「盗作」であるという爆弾をばら撒き、本物を生み出せないと苦悩する作者たち(それは『盗作』の主人公である音楽泥棒であるし、n-buna氏であるし、あるいは創作に従事する私たちでもあるかもしれない)を四散させる目的によってのみ作成された、破壊衝動という呪詛に塗れた作品なのだろうか。いや、私はそうではないと言いたい。いくつもの矛盾を抱えながらも、そこには思想の向こう側にある、音楽に対するn-buna氏/音楽泥棒の確かな祈りが込められているのだ。
3,『花に亡霊』に手向けられた祈り
やっとこさ核心的な考察に踏み込むのだが、込み入った文章になることが想定されるので、まずは導入として始めに示しておきたいことがある。タイトルにもあるように、私がこの節で積極的に論じていくのはアルバムのトリを飾る『花と亡霊』という曲である。ここでこの段落のメルクマールとなる鍵概念を簡単に提示したい。それは『花に亡霊』とある楽曲との対比である。察しがつく方もいるだろうが、その曲とは1stミニアルバム——ヨルシカ自身の初作品である『夏草が邪魔をする』に収められた『雲と幽霊』である。類似点を幾つか列挙しよう。ひとつ目はどちらともアルバムの最後を飾る曲であるという点。タイトルに「幽霊」「亡霊」といった類似の語句が用いられているという点。どちらもヨルシカ史を語る上で重要な転換点となった曲であるという点(『雲と幽霊』は歌詞が「ヨルシカ」というアーティスト名の元ネタとなっている、『言って。』と対になってエルマとエイミーの物語の原型となっているという点において。『花と亡霊』はヨルシカ史の中で初めて『泣きたい私は猫をかぶる』という劇場作品の主題歌に抜擢された曲であるからだ)。以上の知見をどうか覚えておいて欲しい。
予告通り話はすこし逸れるが、ここで『花に亡霊』解釈のヒントを求め、公式Twitterに掲載されたn-buna氏によるコメントに目を通してみよう。
我々の意に反してn-buna氏は、この曲に込めた思想や表現は特になかったと淡白に語っている。だが落胆するのは早い。私の推察では『花に亡霊』は、『盗作』というアルバムの最後に置かれることによって、つまり全体論的な視点を導入することで派生的な意味を獲得している。
どういうことか。とりあえず、『盗作』という物語としての内在的な意味を素朴ながら示しておこう。『盗作』では12曲以降、『幼年期、思い出の中』『夜行』『花に亡霊』と繋がるわけだが、この三曲で構成された第四セクションは文字通り音楽泥棒の幼年期を描写している(わざわざ書くまでもないが第一セクションは『音楽泥棒の自白』から『爆弾魔』、第二セクションは『青年期、空き巣』から『花人局』、第三セクションは『朱夏期、音楽泥棒』から『盗作』までのことである)。簡潔に言うとその最後に位置された(そしてアルバム内のトリでもある)『花に亡霊』は音楽泥棒が求める二つの理想を内包した曲である。ひとつは「理想の音楽」、もうひとつは彼が愛した妻という「理想の存在」である。そして小説版『盗作』、または『花人局』の歌詞を紐解けばわかるように、音楽泥棒の欠落を埋められる理想の音楽とそれを彼にもたらした彼の妻は、ほとんど同一視して良いほど深く絡み合っている。また『花人局』で「花」という語句が音楽泥棒の理想と対応している以上、『花に亡霊』にもその精神が継がれていると考えておかしな話ではないだろう。
そのように考えると、『花に亡霊』とは音楽泥棒が現在の自己に対する破壊衝動の末、遥かな過去に見出した微かな理想の音楽だという解釈が成り立つ(確証はないが、楽曲『盗作』の最後に『花に亡霊』らしきメロディが流れる?というのもその証左だろう)*4。激情を吐き出したような息苦しい歌詞の曲が第三セクションまでの大半を占める中、第四セクションからは憑き物が落ちたかのように、夜と夏への憧憬を歌ったヨルシカ然とした曲が続く。どこか将来への不安と影を感じさせる『夜行』から続く『花に亡霊』は、作者の言う通りになんの思想も見出せない、ただ幼少期に眺めた夏の風景を歌ったシンプルな曲である。だからこそ、音楽泥棒はそこに自身の求める理想を垣間見たのだろう。すべてを失って初めて立った場所に、一抹の救いはあったのだ。
さて、私はこの先なにを論じるか。第二節を軽くでもお読みいただいた方ならもうお分かりだろう。私はこれから先に記した『花に亡霊』の内在的解釈を外的なものへと敷衍していきたい。
少々露悪的な言い方をすれば、『花に亡霊』は商業の商業による商業のための曲であった。劇場アニメとのタイアップ*4によっていくらのカネが発生するのかは、私には知る由もない。だがヨルシカとは、売れない音楽家の物語を描いた音楽で売れたアーティストであり、その屈折の先の大きな商業的成功点が『花の亡霊』であったことは事実だ。そこにn-buna氏が『盗作』という、ヨルシカの破壊を試みた作品を通して託したであろう祈りを見て取ること。それがこの節の、いやこの記事を通しての狙いであった。
ここで再び『雲と幽霊』との対比を巡る議論へと戻ろう。まずはそれぞれのタイトルから分析したい。『雲と幽霊』と『花に亡霊』の「雲・幽霊」「花・亡霊」。この類似はなにを表しているのか。雲と花。『盗作』において「花」が理想と対応しているのなら、おそらく「雲」も文字通り掴むことができない理想を表しているのではないかと考える。そしてそれは、『雲と幽霊』が1stアルバムに収録されていた、しかもアルバムの最後に位置していた(ヨルシカのアルバムのトリは得てしてそのアルバム内の最重要曲だった)ということと結びつく。
「花」とは地上に咲く美的対象であり、「雲」とは空に漂う美的対象である。どちらも対照的な存在だ。するとこのような解釈が成り立つ。『夏草が邪魔をする』発売時点では駆け出しだったヨルシカ/n-buna氏にとって『雲と幽霊』は、(最初に書いたように、ヨルシカというアーティスト名の元ネタであり、後続の物語の元型になったという点で)遥か遠くに浮かぶ雲のように手に届かない理想(それは音楽であり、物語であり、あるいは成功した将来の自分たちだった)を託した曲だった。しかしその後、曲を生み出し続け最新アルバムである『盗作』へと歴史を経た時、状況は当時とはまったく異なったものになっていた。それは有り体に言えばヨルシカが、世間的に認知されるアーティストとして大成したこと、あるいは劇場作品のタイアップ曲を担当するほど稼げるアーティストになったということだ。遥か遠くにあったはずの理想は、手の届く場所にあった。その象徴が地上に咲き誇る「花」である。
「花に亡霊」…亡霊はつまり想い出なので、夏に咲く花に想い出の姿を見る、という意味の題です。
しかし、そこにあったはずの理想は思い出の中の風景とは形が違ったものだった。どこまでも想定の域を出ないが、『盗作』へと至る過程で捻れ歪んでいく思いがn-buna氏の中にあったはずだ。あの夏に夢見たはずの理想はそこにはなかった。「失われた過去は美しい」と氏はよく語る。だからこそ、ヨルシカへの破壊衝動を表象したアルバムの最後にかつての想いをそっと託した。ヨルシカというバンドの始まりの曲であり、また作者の言を借りれば「夏の空気感を重視して、別れや喪失を綺麗に煮詰めて抽出したような音楽」の盗作という形で。それは紛れもなく、ある種の「祈り」の形だった。
もう忘れてしまったかな
夏の木陰に座った頃、遠くの丘から顔出した雲があったじゃないか
君はそれを掴もうとして、馬鹿みたいに空を切った手で
僕は紙に雲一つを書いて、笑って握って見せて
そのように考えると、『花の亡霊』のこの一節がとても示唆的なものに思えてくる。『盗作』と照らし合わせれば、ここで描写されている君とは幼馴染(音楽泥棒の後々の妻)で、僕は幼少期の音楽泥棒であることは確かであるが、それを君が「かつての」ヨルシカ、僕が「現在の」ヨルシカの比喩だと解釈することも可能であるように思われるし、そうやって見ると『花に亡霊』の歌詞はまったく違った様相を呈したものとなる(もっとも、それはn-buna氏のコメントを無視しすぎているという批判は重々承知であるが)。ここでもう一度あのスローガンを思い出して欲しい。ヨルシカ自体がひとつの作品なのだ。時代の中で移り変わっていく、自らの境遇や思いまでも藝術へと昇華させていく。それこそがヨルシカのアーティストとしての本当の価値だ。
もう忘れてしまったかな
夏の木陰に座ったまま、氷菓を口に放り込んで風を待っていた もう忘れてしまったかな 世の中の全部嘘だらけ
本当の価値を二人で探しに行こうと笑ったこと
4,終わりに
さて、これで私が論じたかった内容はほとんど語り尽くした。前述したように筆者はヨルシカと出会ってから半年しか経ておらず、さらに告白するなら『盗作』以前の作品はすべてレンタルで済ましている程度の人間である。当然ライブにも参加したことはないし、ボカロP時代のn-buna氏の曲もほとんど知らない。そのような敬虔なヨルシカ信者とは言い難い人間が書いた考察記事がどこまで的を得ているのか甚だ疑問ではあるが(とはいえ、それゆえに遠慮なく書けたことがあるのも事実である)、この記事がヨルシカ作品へのさらなる発見や感動の種火となることをささやかながら願っている。
最後にヨルシカの紡ぐ物語の世界観について若干の考察を交えて結びとしたい。小説版『盗作』のP136でも示唆されているが、どうやらヨルシカが紡ぐ物語の世界観では「生まれ変わり」が作品の重要な要素となっているらしい(どうやら『負け犬にアンコールはいらない』の初回限定版に『生まれ変わり』という直球なタイトルの短編小説が付属していたらしいが、当然私の手元にはない)。「生まれ変わり」を想起させる曲と言えば、一にも二にも『雲と幽霊』『言って。』だろう。この二曲は対になって、生き別れた少年を思う少女、当の幽霊になった少年が少女に会いに行くというストーリーが展開されている。『そして僕は音楽を辞めた』『エルマ』がこの二曲を元にして紡がれたことはわざわざ言うまでもない事実であるし、その中に『負け犬にアンコールはいらない』の楽曲群(インスト曲であるが、『前世』という曲が収録されているのもこのアルバムである)も包含されていることが公式MVを見るとわかる。
『盗作』は一見すると今までと完全に文脈が独立した物語のように見えるが、上記の通り小説版『盗作』にも「生まれ変わり」と語句が登場する。作中で示唆されている通り、音楽泥棒とその妻が『雲と幽霊』『言って。』に登場した二人の生まれ変わりであるならば、『盗作』も含めてヨルシカのすべての作品は「生まれ変わり」という概念によってそれぞれが繋がりを持っていると言うことができる(もっとも筆者には、「生まれ変わり」とか「輪廻転生」とかいった概念の意味が理解できないのだが)。そのようなホリスティックな物語のフレームもまた、ヨルシカ自体が作品であるというスローガンの説得性に寄与している。そしておそらく次の作品も、前作との緩やかな連続性の内に打ち立てられた作品となることが想定できるだろう。すでに十月七日に新曲が配信されることが決定しているらしいので、4thアルバムの内容が発表される日も近いのかもしれない。『春泥棒』が『盗作』に収録されなかった件や、『噓月』がいまだに配信さえされていない件と交えて今からあれこれと内容を想像することもまた一興だろう。
*1…もちろん、私秘性を巡る「私」の存在論と固有性を巡る作品の存在論ではそもそも議論領域のレイヤーが違うため、まったくの似て非なる問題であることは承知しているが、認められる構造自体は一見類似である。そこにあるのは『端的な『ある』』と『二次的な「ありうる」』の現実性の差異であると私は考えるが、この問題について詳しく論じるだけ能力は今の筆者にはない。
*2…宮崎かすみ(2013)『オスカー・ワイルド』,中央公論新社,p,44. より引用。
*3…筆者の出来の悪い耳を信じるなら『爆弾魔』『レプリカント』『花人局』『逃亡』『夜行』の五曲が該当(自信はないが、もしかしたら『盗作』も当てはまるかもしれない)。
*4…『花に亡霊』はとことん特異な曲である。それはこの曲が『盗作』全体に起用するメッセージ性の大きさだけではなく、その歌詞が『盗作』の物語を描写(指示)し、n-buna氏の心象を描写し、さらに『泣きたい私は猫をかぶる』の物語までをも描写しているという多重構造を成しているという点である。ここでは示唆に留まるが、いずれ「歌詞の分析美学」というトピックの考察記事なんかを書けたら面白いかもしれない。
*5…Wikipediaによれば、それ以前にも『心に穴が空いた』が帝京平成大学のCMソングとして使用されていたらしいが、その頃ヨルシカのヨの字も知れなかった私には預かり知らぬ話である。どうでもいいが、ここまで曲と噛み合わんタイアップも珍しい(某大学のことはフ○ミマのCMでしか知らんので勝手なイメージである)。
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