私は特別な人間ではないから

私が産みの母と生き別れたのが
5歳の時で
当時の記憶が全くない。

本当は忘れてはいけない記憶なのに
それを忘れているということは、
それほどショックが大きかったのだと思う。

そうやって記憶に蓋をした。
 

育ての母に
産みの母と会えないことが
寂しいと伝えることに
遠慮があったのかもしれない。

新しい家庭が円満に回るように
「寂しいと言ってはいけない」が
いつの間にか私の中にインプットされていて、

その時からずっと
嘘の上に自分を立たせて
生きてきたような気がする。

 
それを誰にも見抜かれないように
私はいつもおどおどして自信がなかった。

 
私がスリルや刺激が好きなのも
退屈が極端に嫌いなのも
そんな自分を
見て見ぬ振りをしたいのと
破滅的な願望があったような気がする。

 
私は特別な人間になりたかった。
 

誰もが認める美人、
飛び抜けた頭脳や知性、
桁違いに稼ぐ力。

そんな特別な人間だったら
母が私を置いて
家を出ていなかったかもしれない。

特別な人間だったら、
そんな寂しい気持ちを感じずに
生きてこれたかもしれない、と
ずっと考えながら生きてきた気がする。

 
でも産みの母が出て行ったのは、
私が普通のただの人間だからではなく、
離婚という構造の理由だった。

 
考えてみれば当たり前なのだけど、
私はずっと特別な人間でない自分が
ダメなんだと思い込んでいた。

特別な自分になれば
無条件で愛されて求められて
寂しさを感じることがないと思い込んでいた。

 
私が特別であろうとなかろうと
母は出て行った。

 
その事実はある意味、
私に対する救いでもある。

 
きっと多くの人が私と同じ立場だったら
私と同じように感じながらも
生きていくだろうということも
私にとっては救いだった。
私は特別な人間ではないから。
 
 
もう特別な自分を目指さなくても良い気がして、
傷ついていない振りをしなくても良いような気がして、
私は普通のただの人であることを、
それ以上でもそれ以下でもないことを
心地よく感じる。
 
私がやっと私という輪郭を
等身大の私として形成し始めた、そんな感覚を感じる。

 
この文章を書くことで
心が少しでも軽くなる方がいらっしゃれば
私はとても嬉しく感じます^^

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