自分の暮らし、地域を変えていくと国は変わる#自分ごと化対談(小説家 平野啓一郎氏)≪Chapter4≫
※本記事は、YouTubeで公開している自分ごと化対談【『生活実感から、市民社会をどう作るのか』】について、Chapterごとに書き起こし(一部編集)したものです。
自分の町が他人ごとの人に、まちに関わるきっかけをつくる
<平野>
加藤さんの著書で共感したのは、世界二制度と仰っていて、その塩梅と言いますか、最適化が一番必要なんだろうなと思いました。
つまり、「人としゃべらなくても買い物ができる」ためにかけるコストが適正なのかどうか。やっぱり、パソコンの登場以降に世界をインターフェイス的に見ているという感覚、傾向がかなり強くなっています。
銀行のATMだって、制作の背景には、プログラミングを書いている技術者が精神的にまいってしまうような複雑なシステムがありますけど、ユーザーとしては、単純なボタンを押すだけですよね。
とにかく機械はユーザーフレンドリーでないといけない、自分が悪いのではなく機械が悪いという感覚を多くの人が持っていて、これは小説の読者にとっても、同様に染み込んでいる感覚だと思います。
つまり、読みにくいというのはユーザーフレンドリーではない、インターフェイスのデザインが悪いのだという感覚です。難しいことを書いているのかもしれないけど、リーダブルになっていないということはインターフェイスのデザインが悪いんだ、そういう感覚が、相当広まっているのではないでしょうか。
例えばAmazon Goのように、キャッシュレス、手ぶらで行って、商品を持ってレジも通らずに帰れる「レジ無し店舗」が、シアトルのスーパーなどで登場し始めている。
でも、バックヤードで働いている人は、「レジ有り店舗」よりも増えているという話があります。見えていたものが見えにくくなってきているなかで世界を捉える必要があって、実際に見えない部分にかかっているコストをどう考えるのかということは、ご著書を読んですごく重要な問題提起だと思いました。
それともう1つ、後段の話にも共感するところは、2000年のゼロ年代には、ヨーロッパ等で特にテロが頻発して、ローンウルフ型と言われるような人がネット上で影響を受けて、どこかで無差別テロを起こすみたいなことがありました。
その時に、結局、その人たちは、いま自分の住んでいる町を、自分の町だと受け止められてないんだと思ったんです。つまり、自分がそこに居ても良いことがひとつもなくて、他の楽しそうな人たちのためだけに町があり、自分も税金を払っているのに全く恩恵がないと感じている。
自分がその町の形成プロセスや運営に関わったわけでもないで、その楽しそうに過ごしている人たちの生活にばかり自分の税金が使われていると、疎外されている余所者のように感じてしまう。
そうすると、その町を維持するために、なんで俺は税金を払わなきゃいけないんだ、なんでそんなことに協力しなくちゃいけないんだっていう気持ちが芽生えてくる。そのことを僕は理解できます。
だからといって、テロを起こして人を殺していいとは全く思いませんけど、自分の住んでいるコミュニティを大事にしなければいけなくて、そのためにはどういう政治が必要で、どういう政治家が選ばれなきゃいけないという考えに至ることが大切です。
そのためには、やっぱり何らかの形で自分の住んでいる地区のシステムの構築や運営に関与して、自分があれだけコストを掛けて頑張ったからには、維持したいという気持ちが芽生えてくることが、凄く重要でしょう。
その意味では、多くの人が自分の町に関与して、自分たちで話し合って仕組みを決めたという経験が、その町を維持していく。さらに今度は、「市」という枠組みでの運動に繋がっていくことになると思います。
ですから、そういう住民参加の場所をどういう風に作っていくかということで、加藤さんが実践されていることは、やっぱり非常に大きな意味があるんじゃないかと感じました。
<加藤>
それは所謂、承認欲求というのとも違うんでしょうね。帰属、なんでしょうかね。
<平野>
うーん。単純に、みんなで作ったものを、「じゃあ壊して」と言われると、「勿体ない」という感じがありますよね。単純化すると、みんなですごく話し合って、苦労して造った駅の施設だとか、仕組みの話になれば、大事にしようという空気が生まれるかもしれません。
逆に、新しい世代の人から、やっぱりこれは使いにくいからどうにかしてくれと言われたときに、自分たちがせっかくやったのにということに固執すると、迷惑がられるかもしれません。ですが、新しい住民と元々いる住民の間での話し合いというのは、理想的には、シニカルにならずに拡大していくべきだと思います。
地域住民間のコミュニケーションをどう作るか
<加藤>
東京近辺でも、小さい、首都圏だけど東京のベッドタウンみたいな町では、いわゆる新旧住民の住む地域が分かれているというところが結構あるんです。そうすると、旧住民の方は昔からのコミュニティがあって、本当にみんな良く知っているわけですよね。新住民の方はみんなバラバラなんですよね。
そういうところで自分ごと化会議をやると、やっぱり面白いんですよね。新住民はバラバラで、たとえば無作為で当たっても、最初の参加率、出席率が悪いことが多いんですよ。旧住民の方が高い。
ところが、議論していくと、新住民の方が、面白がったりするんですね。それで何か始まるんですね。
旧住民は、なかなか昔からの人間関係、既存のものから出にくいという傾向があるんですよね。しかし、住んでいるところは別ですから、そこで町として何かがすぐに始まるわけではないですけど、新旧住民がそれぞれ全く別というわけでもない。
一緒にいると、新住民の人たちの関心が凄く高まって、旧住民の人も何か影響を受けて、どうなのかなあみたいな雰囲気出てくる。この意味においては、面白いですね。
<平野>
僕も地方出身だから、田舎の閉鎖性というのは骨身に沁みて知っています。昔から住んでいる人たちと、そうでない人たちというのが、どういうふうに混ざり合っていくのか、混ざり合っていかないのか…。
新旧住民の交流は、いくつものチャンネルがあると思うんですね。
例えば、転入してきた人たちに子どもがいて、学校で子ども同士が友達になるとか、子ども会とかそういうような所から親同士の接点が出てくるというケースもあると思います。
起業するとか新しいことを始めるとか、町にとって利益になるようなことをする余所者であるなら、受け入れられるかもしれないとか。これはもう政治というより、人類学的な話なのかもしれないですけど。
あるいはどこかの企業で働くとか、そういうようないくつかのチャンネルの中で、こっちのチャンネルでは接点がないけど、こっちだと接点があるかもしれない。そこのマッチングというのは何らかの形でサポートしないとなかなか上手くいかないのかなという気がしています。
<加藤>
そうですね。ほっといたら動かないですね。
<平野>
動かないですね。最近ネットで読んだ話なのですが、とある人が、お父さんの実家にUターンで帰省してそこに住むようになり、家を建てて、電気工事をお願いしようと思った。
そうすると、その町内に1軒しかない店で、「お前まさか、あいつんちの息子じゃないだろうな、俺はあいつに小学生の時にいじめられたから、お前の家の工事だけは絶対にしない」と言われたと。
結局、その人は隣町から業者を連れてくる必要があったそうです。その一連のプロセスだけで田舎暮らしに辟易しているみたいなツイートが半年くらい前にタイムラインに流れていて、結構な話題になったんです。やっぱり、そういうこともある。
<加藤>
充分ありますね。
<平野>
京都みたいな町になると、新住民と昔から住んでいる人、それこそ千年単位で居ますみたいな人たちの「京都」という町に対する考え方にも、かなり開きがあります。
もちろん昔から住んでいる人の中にも、進歩的な人、保守的な人、色々ありますけど、そこを上手に調整していく人なり団体なりが必要です。僕はそこに力を入れていくということが、ひいては、最終的には国政とかが変わっていくというところにまで繋がっていくんじゃないかと思うんです。
偉い政治家の人に陳情して、何かしてもらうのではなくて、自分たちでこういうことをしたいと思った時には、より上位のレイヤーのところにアクセスしないと実現しない。
例えば予算が足りない時に、自分たちのなかから「何々さんにちょっと代表になってやってもらいましょう」みたいに生まれるものの延長上で、政治というものを捉えていけることが出来るなら、ちょっとずつ変わっていくのではないかと期待しています。
<加藤>
政治ってね、本当にそうなんですよね。そのレイヤーというか、入れ子になっているベースの生活のところが、きっちりできてないと制度が、本当に言葉の羅列になりますからね。
よく国の役人が市町村の事を、行政の末端という言葉を使うんですけどね、それは自分たちが中心だと思っているわけです。だけども実際に自治体に居るとね、末端じゃなくて先端なんですよね。
ですからその感覚が、いますごく希薄になっているんですね。