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ため息は蜃気楼のように (約1万文字・読了20分)

はじめに
・2021年度北日本文学賞応募作(宮本輝先生選考)
・1058応募のうち2次選考通過(164編)
タイトルは特定防止のため変えています(その他はママ)
・無断転載等は著作権法での例外を除きお控えください。
・自称純文学なのでオチはなく、あまり面白くないです。

新大阪駅から

 西から薄らぼんやりと見えてきた特急列車は、僕を避けて別のホームに入っていった。
 午前八時三十分を少しすぎた頃である。
 僕は、新大阪駅の四番ホームで金沢行きの特急サンダーバード八号を待っていた。国鉄がJRに変わったときのように、最初はたいそう奇異に思われた「サンダーバード」という名称も、あたかも当初からこの名前でしたよ、と言わんばかりに感じられるようになってしまって、いつの間にか「雷鳥」とは呼ばなくなった。
 まさか路面電車に乗るかのように簡単にサンダーバードに乗ることができるなどということは、夢々思ってもいなかった。
 
 今から40年以上は前のことである。
 小学四年生のころに特急雷鳥に乗った旧友、たしか名前は清一といったその旧友は、次の日、教室中に響くよう声高にそのことを話した。
 教室の空気がひどく乾いていた。その記憶だけは、たしかに漂っている。そういえば、その頃といえば、家ではまた兄が風邪をひくのではないかと、母が案じていたのだと思う。だから、清一が雷鳥の自慢をしたのは、おそらく冬場だった。
 僕らは、憎らしいのか恨めしいのか、まずは清一の話を嘘だと疑い、次に自慢が始まったと罵り、最後には雷鳥の速さや乗心地についての質問を重ねる。そういった具合であった。雷鳥の早さを、清一は「車やバスよりも何倍も早い」などと身近にわかりやすい比喩をしたものだけれども、どうにも当時の僕たちには伝わらなかったらしく、一昨年に開業したばかりで誰も乗ったことなどなかった東海道新幹線と比べてどちらが早いかなどと、今にして考えると実に子どもらしい質問に終始した。
 当時の僕たち、ーもちろん兄にとってもそうであろうがー 雷鳥とはそういった存在であった。およそ乗ることのない新幹線とはちがって、中学校の修学旅行ではおそらく乗ることができるけれど、それよりも早く絶対に乗ってみたい、そういう存在であった。

 特急が近づいてきた旨のアナウンスが流れると、思わず、サンダーバードがやって来る大阪駅方面に目がいった。列車はホームに近づく前にスピードを大きく落としたようで、連れてくるであろう八月の熱風の予感に反し、扇風機のような生ぬるい風が僕の頬を不快に撫でた。小学生くらいの子どもがホームに駆け寄る。続いて、おそらく弟であろう三歳か四歳くらいの幼児が僕の前にでてきて、列車に合わせて顔を振った。
 新大阪で降りる人などいない。もうわかっていたから、ドアーが開くのを正面で待ち、開くやいなや空席を探した。僕も歳をとるにつれて、そう頻繁ではないのだけれど雷鳥に稀に乗るようになった頃は、あえて琵琶湖側に席を選んだものだったけれど、今はもうどちら側でもよかった。
 座席を確保できるといつも、あれやこれやとしてしまうのが僕の悪い癖で、網棚に鞄を置いたのだが、鞄を置いたと思えば、酔止薬と手紙を取り忘れたことに気がつき再び網棚から鞄を降ろした。気がつけば、サンダーバードは高槻駅を何の遠慮もなく通過し京都駅へ向かうところであった。高槻駅のプラットホームでは誰かが電車を待っていたようだったけれど、この特急ではない。
 新大阪もそうであるが、高槻や茨木の付近にはよく来たことがある。大学進学を境に高岡から京都に出て、その後、しばらく茨木の板金屋で働いていたから、この辺りは常連さんが多くて通らざるを得なかった。茨木、高槻から京都へ抜ける国道一七一号線の沿線にある、いくつもの町工場は今でも覚えている。

 車窓に目をやる。
 夏らしい入道雲などない。何重にも絵の具を重ねて、結局、黒くふやけてしまった画用紙のような暗雲が、ただ見える。古い窓越しだからかもしれない。
 これも、やはり僕がまだ小学生だったときのことだけれど、図画工作の写生の授業が高岡の古城公園であった。僕は、空の部分に何も色を塗らない風景画を提出した。冬の高岡の空には常に雪雲が覆っていて、僕が持っていた八色の絵の具の中では唯一白がふさわしかったのだけれど、白は、桃色や水色を作るためにとても必要な色だから、空のために使うにはもったいない。だから、空に色を付けずに提出した。
 担任の西村は、
 「空にもよく見るとなにか色があるはずで色がないものなんてない」
などという意味のことを言っていた。噂では西村は海軍にいたらしい。
 雪雲は白だと信じていた僕は、それにどうしても納得ができず、家に帰るとすぐに、そのことを母と兄に話した。中学生だった兄は写生・・という言葉に何度も笑っていて、たまらず母は、
 「なんゆうとるがいけ」
と兄を叱りつけた。そして、その後で母は、
 「そじゃれど、寒なったかいね、すこし灰色に似とるかもしれん」
そう僕に言ったのだった。
 

京都駅から

 もしも、今日のように雲が陰鬱に見えれば、あと少しだけ絵を上手く描くことができたのかもしれない。なにより、もう一度、灰色で絵を塗り直したら、母は褒めてくれたのかもしれない。
 そのようなことを思いながら、いつまで経っても風景が変わらない滋賀の山々を見つめていた。
 二本の電線が流れては、三本、四本と増え、気まぐれにどこかでまた二本にもどる。電線が何かと何かを区切っているかのようにも見えた。電線で区切られた、夏山、古民家、そしてコンビニエンスストア。それだけが映る車窓だ。高岡とさほど変わりがない。福井まで開業するらしかった北陸新幹線も、いつになることやら、いまだ金沢駅までしか開通せず、これであれば、かつてのように大阪駅から高岡駅まで特急一本で行けた雷鳥のころのほうが、ずいぶん心地がよかった。車内販売もなくなった。数十分到着が早くなろうが遅くなろうが、車窓を眺めているだけの僕にとってはさして重要な問題ではない。それこそ、二人掛け座席の端のレバーを足で踏んづけて、(少しコツはいるのだが)四人対面座席を作り、まるで麻雀卓と向き合うような顔色のサラリーマンや、居間でちゃぶ台を囲むかのように談笑する家族らを見ているほうが、いくらか居心地がよかったのかもしれない。

「すいません、あの……」
 妙齢であろう女性の声が聞こえ、滋賀の山側を眺めながらほとんど閉じかけていた僕のまぶたが開いた。京都駅を過ぎてからずいぶんと時間が経って、話しかけられたこと驚き、僕は中腰になり声のする方を見た。どうやら、リクライニングを倒していいのか、そういうことを尋ねられたみたいだ。僕は、ただ「ああ、はい」と答えた。座席の間から見えた、ノースリーブの女性の生身の肩だけが、ただただ印象に残った。その残像を愛したまま、ふたたびまぶたを閉じた。まだまだ滋賀だと思っていたけれど、もうすぐ敦賀だという車内放送が聞こえた。

 僕が期待どおり、初めて雷鳥に乗ることができたのは昭和四六年の中学校の修学旅行のときだった。もちろん五つ違いの兄は先んじて乗っていて、僕は誰にも自慢することも出来なかった。
 僕だけではなく旧友の多くにとっても、たぶんそれが初めての雷鳥だったのだと思う。その頃は、雷鳥に乗ったということは、ただそれだけで、どこかいつもとは違う感覚を味わえることであった。それは、今まで僕らが知らなかった世界を知るということであった。もちろん煙草は吸ったことがあるけれど、そんな安っぽいものではなく、雷鳥とは、煙草や日本酒なんかよりも一層と大人になった気分がするものであった。
 いまでこそ、小学生でも修学旅行に行くのが当たり前のようであるが、僕の頃は違った。これは確かな記憶だ。兄とも両親とも小学校の修学旅行の話などした覚えなどない。中学生で始めて修学旅行にいくのである。都会は違うのかもしれないけれど、僕や兄の小学校の修学旅行というと、どうせ高岡大仏か古城公園に行った程度だったのだと思う。兄に訊けば、より正確なことは分かるはずだ。
 
 中学生の日々を鮮明に覚えているかというと、どこに片付けてしまったか分からない八mmやビデオテープのように、まるで見当たりはしない。まだ痴呆とは程遠いと信じてやまない僕でさえ、中学生の頃の記憶は鮮明ではない。
 それでも、僕が修学旅行に行く前日の兄との会話だけは覚えている。高揚感がそうさせたのだろう。
 「明日、修学旅行えってくるちゃ」
 「そうか、そんな歳なりよねなったか」
 兄は僕を見て笑顔で小さくそう答えた。そして、小さくため息をつくと、急ぎ工場こうばに働きに出た。この五年前に兄から修学旅行の顛末を訊かされたときは、兄はもっと楽しげに語っていた。兄の修学旅行体験記には、いくつかの誇張があったことが、今にしてみれば分かる。地下街が完成して一際立派になった高岡駅と京都駅とではさほど違いなどなくって、京都の次は神戸、さらに次は船で徳島へ順々に巡り、徳島から淡路島に向かい本島に帰るという具合だった。僕のときは、生憎、天候が悪くて渦潮は見えず、その代替措置なのかはしれないけれど、淡路島の旅館で、女中たちが踊る阿波踊りを見物した。そして、やはり雷鳥で帰省した。思えば、このころから、兄とは綻びが生じていたのだと思う。
 「敦賀、敦賀」
 使い古されたメロディーとともに流れたアナウンスで、僕は、もう一度、目を覚ました。

敦賀駅から

 人間は、足と頭とでバランスをとっているらしい。足が不自由になると、そのせいで、頭とのバランスがとれなくなる。すると次第に見当識が曖昧になっていき、その人間の、そいつ自身の本性が垣間見えてくる。

 晩年の父には、認知症の傾向があった。ちょうど北京オリンピックがあった2008年のことだ。その年、子どもでも二段飛ばしで駆け上がるような中庭へのわずかな段差で足をくじき、結局、特別養護老人ホームに入所した。それ以降、自宅に帰ることはなく、東日本大震災のだいたい一ヶ月後に、誤嚥から突然に危篤状態になって、あっけなく死んだ。殺虫剤で蚊が簡単に落ちていくように、すぐに息が途絶えた。最晩年は、もはや東日本大震災の意味すら理解できていなかった。

 父は仕事での信頼は厚かったようだった。軍隊から戻り、その後、手習いのようにして始めた溶接や板金の仕事ですら、もともとの手先の器用さを武器に、家族を養うには十分な依頼を得ていた。さらにいうと、失業した友人を期間工として雇って急場をしのがせたこともあったそうだ。仕事がはいるたびに、
 「えそがしなるじゃ」
とさぞ誇らしげであった。

 月に一度は、その友人・・とやらが僕らの家に来て、父を社長・・ 社長・・と繰り返し呼ぶものだから、父は余計に気分を良くして、日本酒だけではなくウイスキーを振る舞っていた。
 しかし、他人がいないときの父はというと、昼食時にでも日本酒を飲むような人間で、夜になれば富山の冬は酔い覚ましにちょうどいいなどといって、熱燗の五合は軽く飲み干していた。その後は決まって、仕事で気の食わないことを思い出したのだろう、
 「おめえ、なんゆうとる」
などと癇癪を起こしては、中庭を向き、怒鳴り声をあげた。そして、母や僕ら兄弟を当然のように殴ったし、僕らに見せつけるように小銭を中庭に投げつけては、それを拾わせた。あげく金を大切にせよといって、小銭を井戸で磨かせた。
 結局、それが、僕らの小遣いになったものだから嫌ではなかった。父は一切語らないが、どうやら父は戦時中、中国にいたらしいことを、ただの一度だけ母が教えてくれたことがあった。
 
 父の仕事はずっと順調で、僕が小学三年生になった昭和四十年には、仕事用ではあるけれど自動車もあったし、カラーテレビも町内では比較的早く手に入れた。いつ仕事が入るか分からなかったものだから遠方には行けなかったが、芦原温泉や和倉温泉、特に二上山万葉ラインに開業した昭和四一年は、その四月にいち早く行くことができた。新聞社と信頼関係があるというのが父の口癖で、毎年のように富山県営球場で催されていた巨人対大洋の野球観戦にも連れて行ってくれたことも、やはり自慢だった。それでも、僕ら兄弟の意見が通ることなどなかった。

たとえば、兄が、
 「雨晴海岸に海水浴にいきたい」
と言ったとき、
 「あんなところは、すぐ廃れるちゃぁ。おまえも、息子あんま にそぉいうとけ」
と母を叱りつけ、頑なに拒否した。父は自分の意見以外は絶対に容れないのである。
 父には、伏木から雨晴への茨道を通る悪路のイメージが抜けきれなかったようだ。もちろん、僕と兄は、父に反論こそしなかったものの、隠れて二人して高岡駅から氷見線に乗り雨晴海岸に行き、晴れ間が差したら海水浴をし、雨が降れば義経岩に行った。先客がいることも多く、本当に雨が晴れるまで待ったものだった。にわか雨を期待していたのかもしれない。
父が早出の日にでかけようとしても、電車は動いておらず、二人して自転車で雨晴にむかったこともある。二十回以上は一緒に雨晴海岸に行った。兄の記憶とは誤差があるかもしれないけれど、少なく見積もっても十回以上は一緒に行ったとの記憶だけは一致すると思う。
 僕と兄が雨晴海岸に向かうときは、なぜだか雨が降りそうな日が多かった。
 
 僕が、最後に父と会ったのは、例の雨晴海岸近くにある特別養護老人ホームだった。ちょうど、父が死ぬ前の夏だったから、2010年のことだ。僕は父の面倒を実家で看てほしくて、そのための費用なら多少だすと言い、懐中には昨日降ろしてきた現金入りの郵便局の封筒を忍ばせていたのだけれど、母と兄とが全く聞かなかった。結局、父は、特別養護老人ホームに入所することになった。

 入所した次の夏である。僕だけが早く老人ホームに来すぎてしまって、レクレーションルームに座っては居心地の悪さを感じ、外に出ては煙草を飲み、またレクレーションルームに戻って居心地の悪さを感じていた。父はおそらく自室に居て、一緒にやって来るであろう兄と母を待っていたのだと思う。
 壁には、幼稚園のような手作りの短冊が飾られていた。今月の誕生日の老人の顔写真がひまわりの台紙に貼られていた。こんなところには入りたくないと心奥から思いながら、短冊や台紙の先の、素人が塗ったような壁面を眺めていた。
 
 「はじめましてぇ」
 突然のことばに振り向くと、目線の下に車椅子に乗った見知らぬ老婆がいた。どうやら、この老婆が挨拶をしてきたようだった。僕も一応、
 「はじめまして」
と返答する。そうしたらどうだ。老婆は気分をよさそうにして、別のテーブルに向かっていった。よくよく観察してみると、どの訪問者に対しても同じ挨拶をしているようだ。決まって「はじめまして」から会話が始まる。慣れた訪問者は「ああ、はじめまして」と述べ、職員は「昨日もお会いしましたよ」などと、痴呆を受け入れ楽しんでいるようでもいた。健やかに年老いていた。これが、この人間の本性なのだろう。僕がもう一度、外にでようとしたところ、施設の職員に気を遣われたのか、声をかけられた。

 「吉田さんのご家族の方ですか」
 「……はい、そうです」
 わずかな沈黙があった。ほんのわずかだけれども、確かな沈黙であった。
 「父はどうですか」
僕は予定通りの言葉を発した。
 「お元気ですよ。もうお会いされますか」
 「いえ、母と兄がきてからで大丈夫です」
 「短冊にね、メッセージをお書きですので、是非、みてあげてください」
 「そうなんですね、ありがとうございます。すいません。気がつかなくって、父のもあるんですね」
 若い職員は、乱雑に配置されたテーブルと椅子、そして老人たちの間を、まるで線路でも引かれているかのようにして器用にすり抜けて、僕を短冊に誘導した。
 「ええ、こちらですね」
 指し示された先には、ただ「  」とだけの揺れた線が、油性ペンで引かれていた。 
 もはや「どういう意味ですか」と聞く必要すらなかった。これが、かつて吉田家での絶対的権力者だった父の現在だった。
 
 葬儀のときに母に聞いたことである。父は、施設でもやはり父であったそうだ。いくら取り繕っても、認知が進むと人間の本性は隠しきれない。仕事で得ていた、誠実、従順あるいは献身といったそれらの言葉で形容すべき父の姿はもはやなかったようだ。父は、特別養護老人ホームに入所した直後は杖を使ってもう一度、立ち上がる訓練をしていたそうだが、次第に杖で人を叩くようになり、主治医や介護士も諦めたのだろう、すぐに車椅子生活に慣れてしまった。
 たまに面会に訪れた父の仕事仲間は、父の変貌ぶりに酷く驚いたそうだったが、酒を飲んだ後に家庭内でみせていた態度そのものであり、僕には何らの驚きもない。
 その後、父の仕事仲間が顔を出したのは葬儀のときだけだったようで、母が言うには期間工で雇っていた数人の友人すらも一度か二度しか社長・・の見舞いに来なかったらしい。この仕事仲間とやらの本性もそのうち見えるのかもしれないとすら思った。
 
 前の座席のノースリーブの女性が急に立ち上がり、深い息をつき、力を込め網棚からキャリーケースを降ろす準備を始めた。まだ金沢駅までは二十分程あるのだけれど、つられて僕も小便をしに隣の車両に移った。
 

金沢駅から

 僕の育ちのせいか、あるいは4千円もした高いクッションを引いてもやはり固いシートの作業車に長時間座っている日常のせいなのかはしれないけれど、新幹線に乗ると、いまだに気分が高揚してしまう。北陸新幹線は、あのときの雷鳥と同じで、サンダーバードとは違うものであった。

 兄は高校を卒業後、大学にいかず、父と同様に、高岡市内の町工場こうばに就いた。一定の父の看板を引き継いだのだろう。兄の後を追うようにして五年後、僕も、町工場こうばにでも就くつもりだったが、兄から、大学にいくように強く進められた。少なくとも僕の知る限りでは、自営業の家で、そのような助言をした家庭などない。学区二番手の高校に進学できた僕は、吉田家にとって自慢だったのだと思う。父は、大学進学については、何も言わなかった。これも兄に聞けばわかるはずだが、おそらく兄が推したのだろう。僕の不器用な手先では職人は無理などと上手い理由を付けて。
僕にとっては、父が鉄の板を手品のように器用に成型する仕草は職人のそれであり、格好良かったのだが、兄には違う風景が映っていたのかも知れない。

 僕が京都の大学に入学することになったとき、父母、そして兄とで馴染みの鮨屋にいったことがある。赤提灯ではなく赤色灯を光らせている変わり者の大将がおり、父はひどく気に入っていた。
 僕らが入ると、女将はなにも言わず、いつものように、日本酒を父に差し出した。女将の「立派な二男さんですね」との言葉もあり、さらに何合も酒がすすんだ。意外なことに、普段はまったく酒を飲まない兄も、この日だけは珍しく、父と同じ量の日本酒をあおった。 
 そして、兄と五年違いのはずであるが、僕と兄とで修学旅行の話題が尽きなかった。当時の京都駅よりも高岡駅の方が立派だったことや、京都観光、特に外国人を見る度に「ハロー」とみんなで声を掛けたことなど、さも同級生のようにも感じた。この時間がずっと、ずっとずっと続けばいいとすら思った。
 やがて二時間、三時間と時が経ったとき、兄は、はじめて僕に苦労話をした。僕もここまでの深酒をしたことは初めてで、よく覚えていないけれど、要するに自営業は大変だという意味のことと、やはり「学」がないといけないと縷々述べていた。兄は一通り語り終えると、
 「おまえは、京都の大学で何したい」
と訊ねた。
 「なん。まだ、寝床しかなん」
そう僕が、修学旅行の旅館の夜のようにして答えたときだった。
兄は、
 「おめえ、なんゆうとる」
と、あたかも父が癇癪を起こしたときのように、酒をこぼしながら僕をにらみつけた。女将が慌ててやってきて、母も一緒になり、
 「もう、飲みなさんな」
と兄たしなめたが、兄はめずらしく聞かず、将来、何の仕事に就くのか、僕を執拗に罵ったのだった。父が二人いるようだった。
 それ以降のことはほとんど覚えていない。僕も、相当酔っ払っていた。おそらく、大学で勉強して決めるというように取り繕って落ち着いたのだと思う。

 結局、僕は、大学を卒業はしたものの最初に入った建材メーカーを辞めた。いまは、二度の転職を経て、建築の下請けの中小企業で板金と、そして社内で唯一の左官工としての職人仕事も稀にしている。
 大阪と高岡の距離のせいかもしれない。雷鳥でも五時間はかかっていた、その時間のせいかもしれない。次第に、兄、そして父母との連絡は減っていった。兄に子どもが産まれたときには、お祝いを贈ったが、礼状はどなかった。徐々に関係も遠くなり、母からの連絡すらも僕から返すことは少なくなった。父を特別養護老人ホームに入れることに僕が反対したことも遠因なのだろう。もはや、僕の今の住所は、兄も母も知らない。

 兄と疎遠になったのは、要するに、大学まで行かせてやったという兄の自負心と、そのあげく、板金や左官をしている今の僕の現状が気に食わないからなのだろう。だったらいっそうのこと、父のように癇癪を起こして怒鳴りつければいいものの、兄は、あの鮨屋以来、何も言わない。母と兄に会ったのは、父の葬儀が最後だ。卑怯な兄だ。僕らも大人なのだから、兄弟のこの差に不平をいうべきではない。こんなことは兄も分かっているはずだ。

 僕は、キャリーケース一つを北陸新幹線つるぎ・・・の網棚に置いたのだけれど、置いた途端に、新高岡駅に着くというアナウンスが流れた。
 
 僕が大学進学のために京都へ発つとき、兄は高岡駅まで僕を見送った。荷物が重そうだからと雷鳥の車内に入り、網棚に三つか四つ程の荷物を置いた。その途中、雷鳥は発車してしまった。兄は「まいったなぁ」と頭をかいた。
 もともと兄は饒舌ではないが、仕事をはじめ余計に寡黙になった兄が、久しぶりにはにかんでいた。
 兄は長襦袢ながじばんをめくった。兄の両腕は三月なのに黒く焼けていた。間違って雷鳥に乗ってしまうなど聞いたことなどなくって僕らは、幼少期のようにひたすらに笑った。
 料金はどうしたらいいかとの話になると、「俺はおまえの荷物に隠れるからおまえが上手く対処しろ」などと軽口を叩きあった。
 結局、兄は金沢駅から鈍行で高岡に戻った。兄はわざと降車しなかったのだと思う。いまさらではあるが、脳裏にこびりついた記憶が、ふいに落とし物がみつかるように繋がった。
 

新高岡駅から

 やはり幼いころの記憶どおりであった。
 熱中症とコロナ禍の人混みを避けるがために早朝に新大阪駅をでて、新高岡駅から乗り継ぎ、越中大門駅で下車したのは、8月13日の正午を少し過ぎたところだった。
 越中大門駅から西へ庄川を越えて蓮花寺れんげじに向かう道の途中に仏花の露天商があった。老婆が用水路の上に板を置いて荷車を車道の端へと寄せている。昔は、用水路の清流に草花を挿していたのだが、もう四十年以上経った今では、雨の日以外、水など流れていないのかもしれない。熱射で干からびた泥が瓦のようで、ペットボトルやヘドロのようなものが折り重なっている。
 僕は、その老婆を見るやいなや、顎にかけていたマスクを口元まで引き上げ自らの顔を隠すようにして、老婆を横目でみた。
 老婆の顔に見覚えはないのだけれど、老婆の座る丸椅子の前には、菊、それに線香や蝋燭が丁寧に並べられていたことだけは三十年以上前から変わらない風景だったものだから、あの乳飲み子を連れていた女が、この老婆であることは、ほとんど疑いがなかった。

 この墓地の区画は、全部で二十かせいぜい三十程度しかなく、碁盤のように整っていて、ひときわ立派に建立された高岡から出征した兵隊さんの慰霊碑が目印となっている。彼岸までいくぶんか時間があるというのに、供えられた和菓子がずいぶんと虫を惹きつけている。
 「ああ、たしかこっちだった」
 僕は、阿弥陀くじにでも導かれるようにして、自然と、右手のより急な坂沿いの区画を進んだ。自信はないが、間違いはない。それこそ、四十年以上前に父母や兄と連れ添われて来たときの記憶が心奥にあったのだろう。だから、自信はないが、確信があるという奇妙な感覚だった。


 父の墓標は簡単に見つかった。
 今日が迎え盆のはずだが、野蒜などの雑草が生えている。僕が一番のようだ。僕は、ひと息を吐き、すぐに墓標の四辺を見渡した。棹石さおいしの右側面には、昔から刻まれていたかのように自然に
 「大作」
との名が刻まれていた。
 「そうか。やはり兄は死んだのか」
僕は、ひとつ深いため息をついた。

 僕が兄の死を知ったのは、四九日をいくぶんか過ぎた頃だった。
どうやって住所を知ったのだろうか、八十歳を過ぎた母から届いた手紙には「一度、高岡に帰っておいで。大作が亡くなったから」という意味の言葉が添えられていた。最初は父と同様にボケたのかと思っていたが、何度も読み返すうちに、乱雑な字ではあるが、母からすると丁寧に書いたらしいことは、きちんと、最後に「。」が付けられていることから分かった。
 
 墓石を拭き、草を刈った。そういえば、一緒に日本酒を飲んだよなと思い、近所のコンビニエンスストアに寄った。立山・・のカップ酒でもよかったのだけれど、兄は無理をして飲み、残りはどうせ父が飲み干すだろうからと、大阪にもある一升瓶の日本酒を買った。
 母と一緒に住んでいる兄の子どもたちは、何という名前だったか。年の頃でいうと、もう三十歳にもなっているだろうか。そういえば、母の手紙には新高岡のあたりに家を建てたということも書いてあった。きっと、僕らが小銭を磨いた井戸はないのだろうな。そんなことを思いつつ、墓石の横の平らな部分をタオルで拭って一升瓶を置いた。今日か明日、おそくともお彼岸には、母も気がつくはずだ。

 越中大門駅から、大阪駅への最終列車が午後七時頃で、まだ時間はあった。けれども、兄が本当に死んでいたときには、実家に寄らない、そう決めていた。人間、死ぬときはひとりだ。父は自分が分からくなって死んで、兄もにわか雨のように急に押し寄せた癌の大群のせいで逝った。結局、僕は、新高岡でも城端線で高岡駅へ乗り継いだだけで、降車しなかった。
 
 雨晴海岸に着いたときには、午後二時を過ぎ暑さも酷くなっていた。コロナ禍であまり人は居ない。ずいぶん綺麗な道の駅・・・が静かにあるだけだ。日差しと対照的なその建物のコンクリートの冷たさよりも、僕には壁の塗りの甘さが気になって仕方がなかった。
 
 相変わらずの晴天だ。いつまで待てばいいのだろう。雨の気配などない。雨晴特有の霧は時期ではなく、到底、蜃気楼など現れるはずもない。
 今朝みた新大阪駅での、あの暗雲は、そろそろ高岡に追いついてもいいころじゃないか。サンダーバードや北陸新幹線とどっちが早いのだろう。
 今日、いや、いますぐにでも雨が降ればいい。
 にわか雨ではなくって、大雨がいい。
 その後、しばらくすると、すぐに晴れるに違いない。
 まさか大雨を望んでいることを知ったら、兄はさぞ驚くだろう。
 
 雨が降ることを期待して小岩に腰掛ける僕の視界には、陽炎が立つ。
 整備された車道を自転車で走る兄弟のような小学生が映る。
 緩やかな坂道で、近づいては離れ、離れては兄らしい方がペダルを踏むのを止めた。彼らは決して、いつかの僕らのように、にわか雨など待ってはいないのであろう。
 蓮花寺でついた、あの僕のため息は、蜃気楼のようにして消えていった。    
                (了)


※ ヨルシカの「ただ君に晴れ」は雨晴海岸が舞台です。


著者 : ハヒフ(Twitter ID : @same_hahihu)

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