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奈良時代の仁多郡役所

奈良時代に編纂された出雲風土記によると、当時の仁多郡(現在の奥出雲町)の長官である大領は蝮部臣が務めていたと記載されています。当時の仁多郡の郡役所は、現在の郡(こおり)地区にあったと考えられています。今は特に町の中心というわけでもなく、かつてここに郡の中心があったとは、一見して想像しにくいのですが、この周囲には、郡役所と関連すると考えられている様々な遺跡や地名が存在しています。

まず、「郡(こおり)」という地名自体がそうですね。1300年以上前の奈良時代に郡役所があった痕跡が今も地域の名前として残っているというのは面白いです。といっても、この郡地区から郡役所がなくなったのがいつなのかは不明なのですが。

郡役所の跡地そのものは発見されていませんが、郡地区内に「大領原」「内裏原」という地名(小字)の場所があり、今のところそこが郡役所跡として比定されています。

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この郡役所跡から数百メートル離れたカネツキ免遺跡では、かなり大型で豪華に装飾された円面硯や、「大」「上備」「伴」などの字が書かれた墨書土器が出土しており、この土地で文字を使う仕事が行われたことは確実であるとともに、郡役所と関連する遺跡と考えられています(出土品は奥出雲多根自然博物館に展示してあります)。そもそも、出雲国風土記の仁多郡の条はこのあたりで書かれたのかもしれませんね。また、近隣の芝原遺跡は奈良時代の官営鍛冶工房と推定されています。

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集落内には大領神社という、いかにもな名前の神社があり、由緒書きにも「御本社大領神社は遠く千三百年の昔大化改新に当り、当時仁多郡の大豪族蝮部臣が仁多郡の郡家大領職にある時、出雲風土記に所載の須賀非の社を三所の城山から高田の下西の上へ移して郡家鬼門鎮護の社となし崇敬し、これに大領の祖先を合祭して仁多郡の一宮とし大領の氏神となしたもので、当時は広大なる氏子を有しており、三処の郷(上下三所、馬馳、角木、石原、里田、矢谷、高田、簾、琴枕、高芝、大内原、塩原、久比須、中湯野、西湯野、梅木原、加食、乙多田、湯野原、郡、神畑、比田里、広瀬)までも氏子であった。朝廷からの御尊信や領主からの崇敬が篤く、社領の寄進や、社殿の造営等があた。時代の変遷に伴い、参拝上の不便も多かったことから延宝二年九月十四日(一六七四年)高田から現社地に移転をした。明治四年村社に列し、昭和三年十一月由緒に依り郷社に列し今に至る」と書いてありますので、須賀非社にルーツがあることと、郡司と関係が深い神社であることがわかります。ちなみに、出雲風土記記載の須賀非社は現在の城山に比定されていますので、郡司によって移転されたのは風土記の編纂以後の話ということになるのかなと思います。

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郡地区の隣にある高田地区には、古代寺院高田寺の跡があり、礎石が残っているほか、軒丸瓦や軒平瓦、仏像などが出土しています。高田寺は天正年間に三沢氏によって亀嵩城下に移転し青龍寺と名前を変えていますが、高田寺の由緒を書いた高田寺根源録が伝えられています。それによると、仁多郡司大領蝮部臣の祖父が意宇郡舎人郷から来て、高田寺と建てたと記載されており、これもやはり郡司に関係する寺のようです。

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そして、この土地に郡役所ができる背景は、少なくとも古墳時代にまでさかのぼると考えられています。高田寺のすぐ近くの山には、仁多郡最大の古墳である岩屋古墳があり、この巨大な古墳を築くことができる力をもった勢力が、奈良時代の郡司へとつながっていくと推測されるのです。古墳時代から奈良時代にかけては、仏教の伝来により権力の象徴が古墳から寺院に移行していくことが知られていますが、高田廃寺と岩屋古墳が近接していることはその典型と言えるでしょう。

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また、同じ地区内の常楽寺古墳では、島根県内では出土例の少ない人物埴輪は馬形埴輪などの形象埴輪が出土しています。こうした埴輪を手に入れられる力があるということも、この土地の勢力が古墳時代にも力があったことを示しています。加えて、この形象埴輪は、松江(当時は意宇郡)の岩屋後古墳との類似性が指摘されており、高田寺根源録の、大領蝮部臣の祖父が意宇郡舎人郷から来たという記載も考え合わせると、意宇郡との深いつながりが想像できます。(出土品は古代出雲歴史博物館と奥出雲多根自然博物館に展示してあります。)

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このように、仁多郡役所比定地の周辺では、古墳時代から奈良時代にかけて、仁多郡内で大きな力を持った勢力がいたことを感じさせる遺跡がたくさんあります。