見出し画像

イスラム世界(マホメット)

イスラム共同体の躍進は彼なしでは成立しませんでした。また強大な隣国によって乱れ続けていたアラブ世界の様々な部族を統一したのも彼だった。

啓示

それではマホメットはどのような人物だったのか。彼が40代に入ったとき(610-612)、啓示を受けるという決定的出来事があります。以下拙訳:

それはラマダーンも終わりに近づいたある日の夜であった。ヒラー山の洞窟で瞑想に耽っていると、預言者の心に突如として啓示が沁みこんできた。夢見心地のなかで、神秘に包まれたものが近づいてきて、記号に覆われた布の巻物を見せ、読み方を指南した。『読めません』預言者はいう。『読め』そう天使は繰り返して、巻物を預言者の頸に押し付ける。『何を読めと』
『読め、人を創られた主の名の下に』
目覚めた預言者は、聖なる書が彼の心に降りてきたと悟った。

ブローデルはこのシーンで「読む」を「誦む」とも解釈できると付け加えます。預言者が文字を読めたかどうか定かでないからです。また天使(ガブリエル)の強引な様子がとても印象的です。天使の描写はこのように優しいものではないことが多いです。

彼はそこから亡くなるまで(632)、道に従い教えを広めます。預言を受けるときは、長い間苦痛を伴うトランス状態に入ったといいます。この道には多くの困難や苦悩がありました。妻の心強い後押しがあった一方、メッカの裕福な商人や両親は敵対します。マホメット自身も思い悩み、自問自答を続けたといいます。この間の彼の言動が、のちにハディース(言行録のようなもの)やコーランとして編纂されます。

ヒジュラ

さて、初期はマホメットの教えを信仰する者は少なく、人生に窮する人々を中心とした狭いサークルでした。その中には奴隷黒人もあり、マホメットの盟友アブー・バクルの奴隷であったビラールは後に初代ムアッジン(礼拝を呼びかける役人)となります。

しかし教えが広まっていくにつれ、楽観視していた敵対側(裕福なメッカの商人)も見逃せなくなり、彼を暗殺しようとします。これを受けてマホメットは仲間を連れてメッカを脱出し、ヤスリブという町へと避難するのです。ヤスリブへのこの脱出をヒジュラとよび、622年9月20日はこの意味でイスラムの時代の幕開けとなります。またこの町は後に、預言者を中心とするイスラム共同体の繁栄の最初の拠点として重要視され、メディナと呼ばれるようになります。(ただしブローデルいわく、ここは元からその名であったようです。)

画像1

さて、当時のヤスリブには農民が多く、二つの部族が敵対関係にありました。またユダヤの商人もいて、最初はマホメットと友好的な関係を保っていましたが、次第に敵対し、最終的には祈りの方向を聖地エルサレムからメッカに変えたといいます。メッカ脱出直後も緊迫状態は解けず、イスラム共同体はその日を生き抜くために盗みをしたりメッカからの商隊を襲っていたようです。そしてついに、マホメットは勢力を増した仲間とともにもう一度メッカの地に足を踏み入れることになります。

イスラム教五行

イスラム教は五つの基本的戒律からなります。すなわち

1. シャハーダ。アッラーが唯一神であり、マホメットがその使者であることを認める。
2. 1日五回礼拝
3. ラマダーン月の断食。
4. 喜捨。貧しい人々に分け与える。
5. ハッジ。メッカへの巡礼

ジハード(聖戦)は五行に含まれません。ちなみにイスラムとは唯一神への絶対的服従を指します。祈りの形式についてはキリスト、ユダヤ教から着想を得ますが、巡礼についてはアラブ・メッカのしきたりにマホメットは従います。すなわち巡礼の地をメッカのカアバとアラファト山と二つにするのですが、この巡礼の形式はイスラム以前にすでにあったのです。ブローデルはこの巡礼の起源を、(おそらく)古代の春祭・秋祭に対応するものとし、聖書にも仮庵の祭として類似の祭があると指摘します。

イスラエルの人々に言いなさい、『その七月の十五日は仮庵の祭である。七日の間、主の前にそれを守らなければならない』レビ記23:34

またマホメットはこの巡礼の慣習の起源はすべてのアラビア人の祖であるアブラハムイシュマエルに遡るとし、ユダヤ・キリスト教に対するイスラム教の優位性を主張します。つまりユダヤ教がモーセ、キリスト教がイエスによって創始したのに対し、イスラム教はまだこれらの信仰が無かった時代に唯一神を信じていたアブラハムを源流とする、そう位置付けたのです。

イスラム教徒は敬虔なのか

このようなイスラム教の本質は、コーランによって規定される戒律が日常生活に深く浸透していることです。その結果(拙訳)

1360年前から、毎年15万人もの巡礼者が世界各地からアラファト山を訪れる。 (Louis Massignon, 1955)

これをキリスト教徒と比べると、宗教的行為の実践という面では明らかに差がある。イスラムが優勢なわけです。しかし、これを信仰の篤さの現れとしてみてもよいのだろうか、とブローデルは問います。

キリスト教はキリスト教で、その舞台である文明の特性を反映した、内部で起こる様々な試練に直面してきた。そしてこれはイスラム教の経験してこなかったものである。イスラムは、宗教的儀式が日常生活の一部となって分かちがいたい、アルカイックな社会を基盤として生まれた。いまもその影響が支配的であるということではないか。

つまりここに文明の違いが現れているというのです。

次回はイスラムにおける「都市」とそれを囲む「辺境」を、メッカの町人ベドウィンの構図として捉え、さらに細かくイスラム教に見えるマホメットの考えを掘り下げていきます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?