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みかえり阿弥陀のおもかげ

 永観堂のご本尊である、みかえり阿弥陀の像を知ったとき、「なぜだろう?」とまず疑問をもった。阿弥陀如来像といえば、正面を見据え、静かに口を閉ざしている姿が、当たり前だと思い込んでいたから。手はしっかりと印相を結んでいるが、後ろを振り返り、何かを気にしている様子の姿。とても気になる。

 サイトや本で背景を調べる前に、そのストーリーを自分勝手に想像してみる。例えば、背後から誰かに声をかけられた?……修行者や拝観者のことを気にしている?……どれも解像度が低く、ぴんと来ない。せっかくなら、この目で姿を見てから、答え合わせをしようと決め、京都へ向かった。

***

 11月某日。烏丸駅付近からバスに乗り、「宮ノ前町」にて降車した。地図で方向を確かめ、歩きはじめる。雲ひとつない秋晴れ。あまりの好条件にたじろぐほどだった。

11時頃の「宮ノ前町」停留所近く

 目的地に近づくにつれて、人通りが明らかに増えていった。永観堂も、近くにある南禅寺も、紅葉の名所と聞いている。ちょうどまっさかりのタイミングなので、混むだろうと身構えてはいたが、警備員さんの声や、日本語だけでなく英語での会話、多言語が飛び交っており、想像以上のにぎわいだった。

 ぞろぞろと人波に流され、たどり着いたのは永観堂禅林寺の総門。鮮烈な紅葉を背にそびえる門は、別世界への入り口のようでどきどきする。

11時半の総門

 総門、中門と進んでいくと、赤や黄色に彩られた葉で、視界がいっぱいになる。あたりはカメラを構えた人々で溢れかえっていた。歩くたびに誰かの写真に写り込んでいないか、きょろきょろしてしまった。

11時半のもみじ


 受付で拝観料を支払い、受け取った拝観券には、紅葉やイチョウが描かれていた。右下に押されたスタンプには、みかえり阿弥陀のシルエット。細部まで工夫されたデザインに、心が弾んだ。

後日撮った拝観券


 受け取ったリーフレットと拝見券を手に、先へ進み、まず釈迦堂へと入った。ちょうど特別寺宝展「禅林寺に息づく長谷川派絵画の息吹」が開催されていた。

 波濤図と呼ばれる画を、初めて目にした。金の雲に、水墨の波。水墨ときくと、何となく柔らかなイメージがあった。しかし、波濤図は、煌びやかで動きがあり迫ってくるようだった。

 それから、釈迦堂の庭園も絶景だった。人が集まる理由を、肌身をもって実感させられた。

12時の庭園

 その後、釈迦堂を出て、御影堂に入った。御影堂には、浄土宗の開祖である法然上人の像が祀られていた。金色の須弥壇の、その絢爛さにおどろく。お賽銭をし、合掌した。

 御影堂を出ると、みかえり阿弥陀をみたい一心で、阿弥陀堂へと心が急ぐ。一直線に向かい、中に進んだ。まず天井が目に入ってくる。極彩色で、豊かな色づかい。そして、入り口付近には、大きな曼荼羅図が飾られていた。目を見張るほどの細かさと、整った構図。しばらくぼうと見つめてしまった。

 それから、さらにお堂の中へ進むと、ついにその姿が在った。極彩色の堂内、金色の須弥壇、中央に祀られている、みかえり阿弥陀の像。名の通り、後ろを振り向いているため、正面からは表情が見えない。その事実に、改めて意表を突かれる。お賽銭をいれ、合掌した後、堂内の椅子に腰かけ、ようやくリーフレットを開いた。この像の背景、文脈を知りたかった。

みかえり阿弥陀と永観律師

 永保2年(1082)2月15日早朝。阿弥陀堂に人影がうごく。夜を徹して念佛行に励んでいる僧侶がいるらしい。
 東の空がしらじらとし始めた。ふっと緊張がとけた一瞬、僧は息をのんだ。自分の前に誰かがいる。それが誰か気がづいて、足が止まった。
「永観、遅し」
 ふりかえりざま、その方は、まっすぐ永観の眼を見つめられた。……

永観堂 禅林寺 リーフレットより

 シンプルな説明だった。「永観、遅し」という、その言葉の真意はなんだろう。なぜ、この瞬間を、像にしたのだろう。みかえり阿弥陀の姿を拝んでいると、さらに疑問がわき、想像が膨らんでいく。

 夜もひとり、一心に念佛行に励む永観律師を思う。以降は私の勝手な解釈であるが、目の前までご本尊が姿をみせ、さらには自分の方をみかえって声をかけてくれたその経験が、大きな意識の変化をもたらしたのではないか。尊い存在は、尊いからこそ、どこか果てしなく遠くに思ってしまう。そんなご本尊が、自分を見てくれている、待ってくれていると、そう感ずるだけで、尊敬の念のなかにも親しみがわき、より一層「自分が念佛をする意味」が見出されるのではないだろうか。永観堂禅林寺を訪れる人々にも、そんな実感をもって念佛を唱えてほしい。そうした思いを、みかえり阿弥陀の存在を通して、つなぎたかったのかもしれない。

 その後、堂内の奥まで進んでいくと、横からもみかえり阿弥陀の姿を目にすることができた。正面からは見えなかった表情。そのお顔からは、どこか親が我が子をみつめるような、やさしさを感じた。

 阿弥陀堂を出たあとは、紅葉に彩られた境内を、のんびりと散策した。

13時の極楽橋

 私を含めた多くの人が、レンズ越しにもみじを見ていた。そんな中、お父さんに手を引かれながら歩いている、男の子がいた。きょろきょろとあたりを見渡していたかと思うと、ふと、立ち止まった。しゃがみこみ、手袋をはめていた手を、ひたりと地面につける。つないでいた方の腕がぴんと伸び、気づいたお父さんが振り返った。目線を男の子に合わせる。男の子は「みてみて!」とその手のひらをお父さんの前に差し出した。そこには、一枚のもみじがはりついていた。

 ああ、何よりもみじを楽しんでいるのは、この子かもしれないと私は思った。すなおな発見と無垢な喜びをもって、一枚のもみじを見せる男の子。そんな彼をみかえり、ほほえむお父さん。男の子のひたむきさに、お父さんのやさしさが呼応していた。その様子に、永観律師と阿弥陀さまのおもかげが重なる。状況も関係性もまったく異なるけれど、その底流にはどちらも「慈愛」があるのだろうと思った。

13時の放生池

 散策したあと、境内から出るとき、看板がひとつ立っていた。そこには「ちょっと見返って お忘れ物はございませんか」とあった。思わず、後ろを確認してしまう。それから、その自分のポーズを思い浮かべ、ふっと肩の力が抜けた。ここでは誰もが、いちどはみかえってしまうのだろうなあと思った。

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