国際母語デーと生家の母語
母語と聞いて、母国語と同じような意味だろうかと思った。
調べてみると、母語は「生まれてから自然に習得する言語」とあるので、意味が異なるようだ。日本語を母語とする日本国籍の人は、母語と母国語が一致しているということになる。Ethnologueという世界の言語について書かれたサイトによると、世界には7,139の言語が存在しているといわれていて、その殆どが国家をもたない小さな言語だ。
日本でも、アイヌや南西諸島において固有の言語がいまも生きている。
日本全国あちこちを旅する仕事をしていると、日本語と一口に言っても「訛り」や「方言」というのは一口に日本語とまとめることは難しい。イントネーションひとつとっても同じ言葉で全く違うのだ。その分布というのは、都道府県というよりも藩の区分に沿っているように思う。文化や言語が同じであるという強いつながりを分断して統合することで、「廃藩置県」には藩という結束力を失わせる目的が強かったのだろう。
母語での会話というのは故郷に直結している。
私は福島県の県南地域の出身だけれど、同じ福島県内でも訛りや方言に差があるので、母語としての訛りは「福島県と栃木県の県境」あたりの言葉だ。会津から山を越えてこちらに来た人も多かったので、会津も訛りも心地良く、少し遠方から嫁に来た先祖がいれば、それも子孫の言語に混じっていく。地元に帰るとほっとするという心理のひとつは、この母語での会話によるものが大きい。
私の書く小説には、度々「街から田舎に帰る」という描写があるのだけれど、実をいうと私にはそういう経験がない。ずっと田舎に暮らしていたので、どちらかといえば都会から夏休みなどの長期休暇でこちらにくる子供たちを遠巻きに見る側だったからだ。それでも不思議といつも「帰りたい」と思っている。
どこかに……でも、どこに?
その答えをずっと探していて、その度に建て替える前の生家での暮らしを思い出した。あの家で過ごした時間は、日本の生活の一時代があったのだと思う。人々の手仕事の営みや、集落という小さな単位での冠婚葬祭のありかた、昔から続く由縁の殆ど分からなくなった神々の祀りごと。全てが売砂われたわけではなく、今でも生家では様々な風習が息づいている。
生家に帰れば、そこで話されているのは、時代とともに少しずつ失われていく地域特有の母語で、まるで遠い昔話の子守歌のように今も私の耳に心地よく響くのだった。
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