見出し画像

忘れるってちょっと怖い

超高齢化社会である日本。とある地方都市に住まう私の周りは例に漏れず高齢者ばかり。
私が働くのは喫茶店ですから、平日の昼間は当然お客さんも高齢者ばかり。そうなると”忘れる”ということはすごくありふれたことで、忘れ物あるあるは定番のネタ。この前お客さんは昔面白かった映画の再放送を見たけれど内容を忘れていたので初めてのときのように楽しめた。なんてことを仰っていて、非常に面白く話を聞かせていただいていました。しかしそんな”忘れる”ということも身近にあるとなかなか笑いにできない自分がいるのも事実です。

私は遅れてきた3人目の末っ子で、両親が40代になろうかという頃に生まれた子でした。
それ故両親は齢60を過ぎ、本人たちの自覚は薄いですがもう立派な高齢者です。一種の諦めとともに私の脳に焼き付いた”忘れる”ということは時に私の心をひどく苛つかせます。

両親が冷蔵庫の前で何を取りに来たのかを忘れるのはよくある話で、父に至っては自分のパンツさえ忘れて子である私のものを履いたこともありました。
異性の目を気にしてトランクス派からボクサー派に変わる男子は数多くあれど、父親に間違えて履かれないために鞍替えした人は少ないのではないでしょうか。他にもそんな話はたくさんあるのですが、先日思わずそんな”忘れる”ということについてなんだか変な気持ちになることがあったので書こうかと思います。

仕事が終わり家に帰り、いつものようにテレビを見ながら夕飯を食べていると、いつものように食事の美味しさを削ぐ最悪のスパイスが強制的に私達の食卓に振りまかれます。それは父のテレビを見ながらの悪態です。今写っている料理はじつはうまくないだの何だの。それを言って何になるのか。でも言いたいから言っちゃうんでしょうね。私達はいちいち反応するのも疲れるので、それを無視して目の前の食事と向き合うのですが、その明くる休日の昼下がりにお茶を飲みに食卓に降りてみると父が昨日見た番組をもう一度見ているのです。
「それ昨日見たたやつじゃないの?」私が言うと父は
「いいんだよ、途中でチャンネル変わって続きが見れなかったから見直してるんだよ。」と言いました。

確かに気になるところでCMに入りそのままチャンネルが変わり大事なところは見ず終いでしたが、チャンネルを変えてたのはお前だろ。
喉までその言葉が出かかったところで、私は気づきました。
続きから見ればいいはずなのですが、父が見ているのはCMが入るずっと前。どうやらどこまで見たか覚えていないらしい。
そしてもう少し様子を見ていると昨日あれだけ悪態をついていた料理も「うまそうだな、今度やってみるか」などと宣っている。

私は言いようのないひどく濁った気持ちになり、怖くなりました。ただ同時に以前お客さんが仰っていた映画の内容を忘れた話も思い出しました。同じものを何十年ぶりに見て同じように楽しめたお客さん。同じものを次の日に見て違うように感じている父。

人は同じことをしても時と場合によって感じ方が変わってくる。要はそういうことなんだろうけど、私が年をとって今まで楽しんできたあんなことやこんなこと。また同じように経験したときに私は同じように楽しめるだろうか、あるいは昔はひどく嫌なこととして残っているあんなことやこんなこと。また同じように経験したときにに私はどう感じるだろうか。
少なくとも父は疲れ帰ってきた晩より休日の昼の方が楽しめているらしい。

私は余裕の持てる大人になりたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?