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【第9回】真砂なす数なき星のその中に

 執筆:角田 ますみ(すみた ますみ)
杏林大学保健学部准教授、 専門:生命倫理学、看護師
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 なだらかでダラダラと続く長い坂を上りきったところに、その家はあった。 
 だいぶ古くなった木造家屋は、ところどころ朽ちていて、外から見るともう誰も住んでいないあばら屋のようだ。それでも時折、洗濯物が荒れた庭先に干してあったりするので、かろうじて人が住んでいることがわかる。今日は襟の伸びた男性ものの肌着や酒屋の名前が入ったタオルが風にはためいていた。

 立て付けの悪いドアを開けると、玄関にはツッカケの横に履き古した運動靴が脱ぎ捨ててあった。今日は、弦一郎さんも帰ってきているらしい。お邪魔しますと声をかけて上がるが、返事がない。恐らく、奥の部屋にいるのだろう。部屋の前に来ると、パシッというかすかな音と、うぅと考え込むような声が聞こえてくる。そっとふすまを開けると、そこに梅子さんと弦一郎さんがいた。

 弦一郎さんは私の訪問看護対象だった。長いことアルコール依存症を患い、ようやく抜け出した頃には肝臓がやられていて無理の利かない体になっていた。そのせいか、まだ40代なのに、50代半ばに見える。それでも日雇いの肉体労働に出かけては、稼いだお金で飲んでしまう。そのせいで入退院を繰り返すという日々を送っていた。再入院するたびに呆れた顔の担当医に、弦一郎さんは「すまねえ先生。俺は、こんな生き方しかできないんだ。これが俺の人生なんだ」と涙ぐんだこともある。最近、ようやく落ち着いて自宅療養が続いているが、またいつ病院へ逆戻りするのではないかと、私は気が気ではなかった。

 梅子さんは、弦一郎さんのお姉さんだ。でっぷりと太った体に不釣合いなほど、ちんまりとした小さな手と指には、いつもタバコが挟んである。弦一郎さんがアルコールなら、梅子さんはタバコだ。若いうちから吸い続けて50年余、年季の入った梅子さんの右手の人指し指は、ヤニで茶色に染まっている。「タバコを吸う奴が皆、肺がんになるとは限らないだろ」というのが梅子さんの口癖だった。遠回しに禁煙を勧めてみても、「これは私が決めたことなんだ」と言って耳を貸さない。

 医療者には、彼らのことを「言っても聞かない、しょうがない人たち」と思っている人もいて、あからさまにそれを口にする人もいた。担当の私も、彼らの行動変容を促せない不出来なスタッフ、と思われていただろう。

 二人の間には、色とりどりの花札が散らばっている。さきほど、パシッと何かをぶつけたような音は花札をめくって畳に投げた音だ。この二人は、揃って大の花札好きで、寝ている時以外は、いつもやっているんじゃないかと思うくらい、花札をひろげていた。勝負が白熱すると、周囲のことなんか気にならなくなる。私でさえ、たびたび訪問してきたことにしばらく気づいてもらえなかったくらいだ。

 二人がやっていたのは賭け花札だったから、その熱中度合いは半端なかった。お金と花札が絡むと、姉弟だというのに、お互い容赦ない。二人の間にはしわくちゃになったお札が乱雑に放り出されている。おおむね、梅子さんの方に軍配が上がるようで、いつも勝率が高いようだった。万年床と化したベッドに寄りかかりながら、余裕の構えを見せる梅子さんと、その対面で眉間にシワを寄せながら前のめりになって花札を打つ弦一郎さんの姿は、訪問すると最初に目にする光景だった。
 勝負がつくと、梅子さんは小さな手でお札をかき寄せる。それが時代劇に出てくる賭博師みたいで、それをやられる度に、弦一郎さんは心底悔しがった。その姿は、子供が夢中になっているような真っ直ぐさと危うさがあって、心配したくなる反面、どこか微笑ましいところもあった。

 梅子さんは、そんな弦一郎さんの姿を見るたびにため息をついて、弦一郎さんのことを「しょうがないダメ男だよ」と不平を漏らした。それを聞く度に弦一郎さんはムッとしてつっかかり、怒った梅子さんが弦一郎さんの横面をひっぱたく。それをきっかけに大喧嘩になることもしばしばだ。
 でも、弦一郎さんが梅子さんに手をあげることは決してなかったし、梅子さんが留守の時、私に「俺の方がたぶん先にくたばるから、その時はどうか姉貴を頼む」とよく言っていた。梅子さんも弦一郎さんの帰りが遅いと、心配して何度も庭先に出て往来を見ていた。寒い日だと、体が冷えてよくないから家の中で待っていたらと声をかけても、家の中に入ろうとしない。
 入院していた弦一郎さんが退院する日は、家の中をきれいに掃除して、弦一郎さんの好物を作って迎えに行く。でも顔を合わせれば、「このろくでなしっ」と言って弦一郎さんの頭をひっぱたき、弦一郎さんが「なんだクソババア」と言い返すというお馴染のやり取りが繰り返されるのだ。
 途中、梅子さんが結婚して出て行き、また離婚して戻ったり、弦一郎さんが独り暮らしをしていた時もあったが、歳をとってからは、二人とも生まれ育ったこの家で、一緒に暮らしてきたのだ。特に、お互い体を悪くしてからは、なんだかんだ言いながら、助け合って生きてきた。梅子さんにとっても弦一郎さんにとっても帰るべき場所はこの家だった。

 さて、二人の様子を見ると、勝負がついたようだった。今日は珍しく、弦一郎さんが勝ったようだ。いつも余裕の梅子さんが渋い顔で溜息をつき、手帳に点数をつけている。私はその横に腰をおろし、花札を手に取った。
 ちょっと艶やかすぎるきらいもあるが、花札の絵柄はどこか情緒があって好きだった。梅子さんはそんな私に、よく花札の絵について教えてくれた。札には月ごとの絵柄があって、日本の四季折々の風物が描かれていること、その描かれ方が端的で、派手に見えるけれど実にシンプルで明確な表現であることを、初めて知った。

 「組み合わせが粋なんだよ。松に鶴、梅にうぐいす、桜に幕、藤にホトトギス、菖蒲に八ツ橋ってね」
 そう言いながら、ヤニに染まった指で一枚一枚めくってくれる梅子さんの口調は楽しそうだ。
 「でもね、残念なことに星がないんだよねぇ。日本人は、月は好きでも星はあまり得意じゃないみたいだ」
 意外なことを梅子さんが言ったので、私はちょっと驚いた。弦一郎さんが笑いながら「姉貴、星空が子供のころから大好きなんだよ。意外にロマンチストだろ」と教えてくれた。

 すると、梅子さんが突然こんなことを聞いてきた。
 「アンタ、真砂なす数なき星の…っていう短歌を知ってるかい」
 「確か、子規じゃないですか」とうろ覚えの記憶で言うと、梅子さんは嬉しそうに笑った。
 「そうかい、アンタ知ってるのか。真砂なす数なき星のその中に…」と梅子さんが言いかけると、弦一郎さんが「われに向かいて光る星あり、だろ。もう何回も聞かされて、ソラでも言えるよ」と言った。
 梅子さんは、そんな弦一郎さんに茶々いれるんじゃないよと一喝すると、「私はこの歌が好きなんだよ」と笑った。子供の頃、母親がよく梅子さんに言い聞かせるように口ずさんでいた短歌だった。

 二人が子供の頃、父親は花街で働いていた。そこで飲んだくれて帰ってこない父親を待って、母親と三人、縁側に並んで夜空を眺めた。それが何よりの思い出だったと梅子さんは言った。
 父親が花街で喧嘩に巻き込まれて死んだ後、それを追うようにして母親が死んだ。そのせいで、梅子さんは学校をやめて働きにでて、まだ小さかった弦一郎さんを育てた。娘盛りの楽しい時期なんて味わうこともなく、毎日生きるだけで精一杯の人生だった。そんな時梅子さんが口ずさんできたのが、この歌だった。

 「正しい解釈なんか知らないけどね。真砂っていうのは細かい砂のことをいうんだ。数なきっていうのは無数のっていう意味。真砂のように無数にある星の中に、お前に向かって光る星が必ずあるんだよって、母親がよく言ってた。だから、私はどんなに苦労しても、きっと私に向かって光る星があるはずだって思って生きてきたんだ」
 梅子さんがそう言うと、弦一郎さんはため息をつきつつ笑って言った。 「でもよ、さすがに俺に向かって光る星はねえよな。打つわ飲むわ、挙句の果てに定職にもつかずに体悪くしちまっちゃダメだな」

 ああ、そうだよ、この馬鹿息子、母ちゃんもあの世できっと悲しんでるよ。
 いつものやり取りから、そんな言葉でも出てくるかと思ったら、梅子さんは首を振って言った。
 「馬鹿だねぇ、お前にだってあるに決まってるじゃないか」
 弦一郎さんは、梅子さんの予想しなかった言葉に驚いて、「…そうかな」と小さな声で言った。
 そんな弦一郎さんを見て、梅子さんはちょっと笑った。
 そして、ヤニに染まった手で私を指さすと、「アンタにもね」と言った。

 今でも、ふとした時に、あの花札の散らかった部屋で、梅子さんが星の話をした時のことを、懐かしさとともに思い出す。
 
 真砂なす数なき星の其の中に吾に向かひて光る星あり

 この短歌は、正岡子規が明治33年に詠んだものだ。明治という時代に、病に臥した子規が何を思いながら作ったのか、後世を生きる私たちには知る由もない。でも、それから途方もない時間が流れて、町の片隅にひっそりと暮らす、決して楽ではなかった女の人生を支えてきたということに、私は胸を打たれる。何かが残って伝わっていくというのは、きっとこういうことなのかもしれない。

 「こういう生き方しかできない」と言った弦一郎さん。「これは私が決めたことなんだ」と言って譲らなかった梅子さん。どちらも医療者から見れば、問題だらけで決して推奨できない生き方を選択していたのかもしれない。医療者は最後までその生き方を変えさせようとして、できなかった。私自身も踏み込むことができないまま、終わった。
 でも、それでよかったような気がする。踏み込むなんて、おこがましい。ひとの人生には、時折、そう思わせる「何か」がある。

 梅子さんや弦一郎さんにとっての、光る星がどんなものだったのか確かめることはもうできない。
 でも、私は、あのヤニに染まったちいさな手と、「アンタにもね」と言った声をまだ覚えている。もしかすると、あの時の、梅子さんの言葉そのものが、私に向かって光る星だったのかもしれない。

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角田 ますみ(すみた ますみ)

【著者プロフィール】東京生まれ。早稲田大学大学院人間科学研究科修了。大学附属病院、総合病院などを経て、訪問看護に携わり、多くの人たちの最期を看取る。そのときの経験から「人生の最期はできる限り本人の希望を生かしたい」と思い、生命倫理学(バイオエシックス)の世界へ。アドバンス・ケア・プランニング(ACP)をはじめとする、人生における意思決定支援を中心にさまざまな倫理的問題をライフワークとしており、「医療における関係性のなかの意思決定」や「終活視点で考えるアドバンス・ケア・プランニング」などの講演や、地域と組んで「きらり人生ノート」などのエンディングノートを監修している。また、医療や介護における倫理教育プログラム開発などの研究を手がけている。福島県立医科大学がんの遺伝外来で遺伝カウンセリングにも携わっている。現在、杏林大学保健学部准教授。

主な著書『笑う角田には福が来る~訪問看護で出会った人々のきらめく16の物語~』(へるす出版)等がある。現在、アドバンスケアプランニング(Advanced Care Planning; ACP)に関する書籍を執筆中。

『笑う角田には福が来る~訪問看護で出会った人々のきらめく16の物語~』(へるす出版)

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