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【第16回】「ヒトがつながりムラがつながる 超高齢社会に隠れた“宝”いっぱいの町づくり」

個別性の宝庫である在宅医療の世界には、患者の個性と同じように、ケアする側も多彩で無数の悩みをかかえています。悩みにも個別性があり、一方で普遍性・共通性もあるようです。多くの先輩たちは、そうした悩みにどのように向き合い、目の前の壁をどのように越えてきたのでしょうか。また、自分と同世代の人たちは、今どんな悩みに直面しているのでしょうか。多くの患者と、もっと多くの医療従事者とつながってこられた秋山正子さんをホストに、よりよいケアを見つめ直すカフェとして誌上展開してきた本連載、noteにて再オープンです(連載期間:2017年1月~2018年12月)

【ホスト】秋山 正子
株式会社ケアーズ白十字訪問看護ステーション統括所長、暮らしの保健室室長、認定NPO法人 maggie’s tokyo 共同代表
【ゲスト】能勢 佳子(のせ けいこ)
肝付町役場福祉課参事兼包括支援係長/保健師

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【対談前の思い・テーマ】
①「ごめんね,何もないところなのよ」ってみんな言うんです。
こんなに素敵な人がたくさん住んでいて、“何もない”なんてことはない。住む人皆に「自分の町が好き」と胸を張ってほしいし、この地域を誇りに思ってもらいたい。それを支える取り組みがどんどん出てきている町だから、何もないんじゃなくて、実は“宝”はいっぱいあると思っています。
②役職がついてしまっても,やっぱり町を走っていたい。
自分が幼少期を過ごした町だから、私は肝付町が大好きです。でも、私一人では町をずっと守ってはいけない。行政の人間にも世代交代は必要で、そういう意味では「現場に行きたい!」思いをセーブしつつ、次の世代を担う若手が取り組みたいことをサポートしていきたいと考えています。

人生の先輩たちがくれる大切なメッセージ

秋山 日本社会の将来の姿ともいえるような、高齢化の進んだ集落が集まる鹿児島県肝付町で、町の保健師としてずっと活躍してこられた能勢さんの、まずは看護学生のころのお話を伺いたいですね。

能勢 かつての国立療養所の看護学校で育ちました。看護学校時代に受け持った2人の患者さんとのかかわりが、今の私につながっています。
 3年生のとき遷延性意識障害で寝たきりで、発語も追視もなく、開眼してもすぐ眼を閉じてしまう患者Aさんを2週間受け持ちました。胃がんで胃を切除していたので、胃瘻ではなくマーゲンチューブをしていました。子どものない夫婦で、奥さんはリウマチ病棟に入院していて、時々ベッドサイドに来ていました。
 25年ほど前で、歯科が入って口腔ケアを行う体制ではまだなかったのですが、看護師たちは一生懸命実施していました。Aさんは自歯だったのですが、口に物を入れると噛んでしまう。コッヘルに濡らしたガーゼを巻き付けて拭いてあげようと思っても、噛んでしまうので舌苔ができていたのです。
 その課題に対して、「どうしたらいいのかな」「お口のケアをうまくやる方法は?」と考えた結果、“自分の歯なのだから、歯は大事にしてきたはずだ。だから、歯磨きだとわかりさえすれば口を開けるんじゃないか”ということでした。

秋山 うん、素晴らしい!

能勢 そこでAさんの顔を横に向けて、歯ブラシにちょっとだけ歯磨き粉を付け、鼻に持っていって匂いを嗅いでもらい、「今から歯磨きをしますからね」と言って、それから口腔内を磨いて、片側から注射器で水を入れながら逆側で吸引するという方法を、ペアの実習生と2人で提案して、実践させてもらいました。

秋山 やらせてくれた病棟もすごいですね(笑)

能勢 そうですね、今思えば(笑)。でもそれをしたら、本当に口を開けたんです。噛まなかったんです。それで「やっぱりこれだよ!」と同級生と言いながら、「気持ちよかったですね」とAさんに声かけし、喜びつつ毎日実践しました。
 そして次の週の火曜日、本当に忘れられない出来事なんですけど、Aさんの清拭をし、何か冗談のような声かけを看護師と2人でしていたら、Aさんがフッと声を立てて笑ったような気がしたんです。「今、Aさん、笑いましたよね。聞こえてますね? 笑いましたよね」って、また大喜びして、いつものように歯磨きをしてさっぱりしたときに、「ありがとう」って声が出て、Aさんが目を覚ましたんです。

秋山 ほーっ!

能勢 私はすっかりうれしくなって、「ワーイ、ワーイ」と飛び跳ね、ペアを組んでいた同級生は、泣きながら「師長さーん!」と呼びに行ってくれました。一番喜んでくれたのは奥さんで、「すっごいうれしい!」って。私の卒業論文はそのAさんについてなんですけど、そのとき私のなかにあったのは、その人らしさというか、何を大事に生きてきたか、その「大事」を大事にすると人って生きるんだということと、かかわる人が諦めなければ何かが起こるかもしれないということでした。

秋山 諦めずにアプローチをする原動力を、そのAさんが教えてくれたんですね。

能勢 はい。また、さかのぼって2年生のときには、水頭症の患者Bさんから、継続は力なりを教えてもらいました。水頭症で、失語症のBさんを、リハビリテーション室に連れて行くときに、季節はちょうど秋で、きれいな青空が続く時期だったんです。だから、いつも同じ場所で「天高く馬肥ゆる秋ですね」と、同じ言葉で同じ声かけを繰り返すと覚えるかもしれないと思って、ずっと言っていたら、そこに来ると「てん、てん」と言ってくれるようになって…。

秋山 おお!

能勢 「天高く」まで、2週間でしゃべってくれるようになりました。継続は力なりを教わった事例です。
 だから私は、高齢者の人から教わることが、看護学校のときから多かったような気がしています。たとえ病気をもっていても、認知症でも、人生の先輩たちから私たちがもらうメッセージはとても深いし大きいと思っていて、それを若い人たちにも感じてほしいし、地域の人たちにもそれを誇りに思ってほしいんです。

秋山 看護学校時代のそうした体験があって、それでも保健師をされているのは、またどうして?

能勢 保健師という道があるんだ!と知って看護学校へ行き、素晴らしい体験ができて看護師になりたいとも思ったんです。でも、私はとてもズッコケなので、「私が看護師をやったらアブナイんじゃないか」という気持ちがずっとありました(笑)。それに、「私にはまだ学んでいないことがある、もう少し私なりの勉強をしよう」と思って、保健師・助産師専門学院に行きました。

秋山 それは鹿児島県内で?

能勢 宮崎です。現在の宮崎県立看護大学の前身の学校でした。私は旧内之浦町で育ち、そこへの愛着がとてもあります。実は宮崎を選んだのは、旧内之浦町の形と宮崎県の形が似ているんです。だから、宮崎で学ぶことができれば、絶対に故郷に活かすことができると思って、鹿児島ではなくて宮崎の学校を選びました。

秋山 学校を選ぶ考え方として、とても素敵だと思います。

高齢化も合併も受け入れて暮らす

能勢 (プロフィールにもあるように)“人がいなくなる”ということを、集落のなかで自然と目にして育ってきたので、保健師になった最初のころから、各集落の人口状況は押さえていました。1991(平成3)年当時でも、旧内之浦町には子どものいない集落がすでにたくさんあり、老年化指数(年少人口分の老年人口)を集落ごとに出したときに、年少人口はどんどん少なくなっていって、最後は生まれなくなるのだと改めて意識しました。「指数が出せなくなるときがくるんだ」と、ドキッとしたんですよね。「どうなるんだろう、この町?」って不安を感じ、だから「皆、元気でいて!皆、死なないで」という思いを強くしたのが、私の若い時期でした。
 その後、高齢化がどんどん進んでいき、私は不安に思っていたのに、皆幸せそうなんですね。元気で畑仕事ができれば幸せそうなんですよ。だから、まんざら悪くないんじゃないかって考えています。
 保健師活動を小さな町でやっていると、どの世代にもかかわるので、子育て中の母親たちとは同世代同士の話をし、高齢者の住民には、私自身が育ててもらっている感じがしていました。「こんなことをやったら楽しいと思うんだけど、どう?」という話をすると、「いいね、いいね。やってみようか」と皆が言ってくれる地域です。

秋山 ああ、そこはやっぱり肝付町ならではというか、都会との違いかもしれない。

能勢 そうですか?

秋山 「やってみよう」と言う人は都会には少ないです。誰かが、「やってくれる」のを待っている。

能勢 ああ、なるほど。

秋山 「やってみようか」って言ってくれる人たちって、健康な精神をもっている気がします(笑)。

能勢 私が保健師になって数年のころに出会った、私より年配の住民たちは、地域で食生活改善推進員とか母子保健推進員などの社会的役割を果たしてくれていた女性たちが多かったからか、「こんなことをやったらどうかな」という話をすると、「手伝うよ」と二つ返事でしてくれる環境で、ある意味、本当に健全な地域だったという気がします。そんなところで育ったので、私は自由奔放に保健活動をさせてもらえたのかなと思いますね。

秋山 内之浦と高山と、二町が合併して肝付町になったんですよね。そこが一緒になったときに、役所内でもしっくりこないような段階があったりしましたか?

能勢 ありました。役場職員のなかでも、自分の町・地域をいうときの単位が、旧町だったんです。私自身のなかでも、しっくりくるまで2~3年かかったかなぁと思います。
 それぞれの文化、それぞれの役所のやり方、空気感みたいなものがあって、それは町の住民にとってもそうだったと思います。不思議なんですけれど、暮らしている人にとっては自分が見聞きしているところが地域なので、行ったことがないところは同じ町になったとしても「自分の町」という感覚ではないのだと思います。

秋山 テレビなどでよく目にする東京とか京都とかだったらイメージがつくけど、すぐ隣って意外に行ったことがない。

能勢 そうなんです。

秋山 近場なんだけれど、違う考え・生活信条をもって生きている人たちがいる町がある。一緒になったけれど、そこは「知らない町」というか、見えない線のようなものがある。

能勢 はい。肝付町には、“平地”と“国見山脈”と“沿岸部の海”と3つの風景があるんですが、「自分のイメージする肝付町は?」と聞かれたときに、山の人は「山があって、あの山の向こうに何があるんだろうと思いながら育ちました」と言うし、海の人たちは、「海を眺めて育っているので、波音が聞こえない生活はあり得ない」と言うし、同じ町でも、もっている感覚がぜんぜん違う。

秋山 その「もっている感覚が違う」という地域の見方が、スッと入ってきて理解できる人と、なかなか感覚として通じない人がいます。地域をとらえる感覚というか、その地域がいったいどういう方向を向いているのかという、はっきり見えないものを見る力、そこをとらえないと地域包括ケアシステムは語れないと思っています。
 肝付町というフィールドで、合併によって気づく地域の違いもあるなかで仕事している能勢さんに、さまざまなものが見えているのは、人がいなくなると家が朽ちて、集落がなくなるという体験を、とても早くからしてきたことに根差しているという気がしました。

褥瘡だらけの「寝かせきり」から幸せな看取りへ

能勢 1991(平成3)年ころ、保健師活動のなかで、寝たきりがとても多いことに気づきました。当時は訪問看護なんてないので、褥瘡だらけでも寝かせきりという状況。そこで、分割浴槽を買って、訪問指導のなかで入浴介助を2人で始めました。そのうち2人では手が足りなくなり、嘱託の看護師を雇用し、入浴と訪問指導ができるようにしたんです。その後、ゴールドプラン(高齢者保健福祉推進十カ年戦略)策定のときに、そうした経験を活かして計画を立てていくことに初めて携わらせてもらいました。
 そのときに感じたことは、これはヘルパーだけの仕事ではなく、連携しながらやらなければならないということ。計画のなかに介護を盛り込み、当時の社会福祉協議会に、身体介護の考え方を私たちと一緒に模索してもらい、計画に入れていきました。そうして、私たちが直接動くのではなく、入浴介助などが身体介護に含まれていくようにシステムを変えていきました。
 医療のほうも、病院で訪問看護の担当を1人決めてもらい、その人に地域を回ってもらえるように変わっていった時期でしたね。
 でも、当時の私は、今から思えば「在宅」ということを全然わかっていなかったんです。個人的にもまだ祖父だけしか見送っておらず、人の死を私自身があまり見ていなかったし、看護学校の実習でも、あまり看取りを経験していなかったことも関係したかもしれません。
 私が保健師3年目のころです。元大学病院の看護師が臨時雇用で来てくれて、一緒に同行して地域を回っているときに、ある家で「この人、たぶん今日(看取り)だよ」と言われました。それを主治医(開業医)に電話したら、「わかった、わかった」と言ったものの、主治医はその人の家に来ないんです。当時の私には来ない理由がわからなくて。主治医は「亡くなってからの連絡でいい」くらいに思っていたでしょうが、若い私は、それが許せなかった。「なぜ治療しないの?」と思ったんです。

秋山 ああ、なるほど。

能勢 実習のなかでは、そういう死はあり得なかったんですよね。でも、主治医はわかっていた。そのとき、前述した同行の看護師が、「もう、お別れをさせたほうがいいよ」と言ってくれて、皆を呼んで、声をかけている間に息が止まりました。私はすぐに「先生、息が止まりました!」って電話して、主治医はまた「わかった、わかった」って(笑)。診療所は5分もかからないところなのに、でも来ないんです。「なんで来ないの。今の時間、外来患者はもういないでしょ!」と思うのに、なかなか来なかったんですよ。
 それが主治医のやさしさだったと気づいたのは、10年目くらいになってからでした。人の死って、そういうことなんだって。でも、それは私が受けた教育のなかには、たぶんなかったんだと思います。なかったのだけれど、皆に囲まれて皆に声をかけられて亡くなっていったその人は、幸せそうだと思いました。

秋山 何も治療してくれないのかと思いながら見ていて、それでも「幸せそうだ」とは感じられたんですね。

能勢 羨ましいなとも思ったんです。「こんなのって幸せだな」「いいなぁ」って思ってました。でも、「先生は嫌い!」って思ったんですよね(笑)。

秋山 周りの人も家族も、それでよしとしていた。それが当時の肝付町のなかであった姿だったのですね。

能勢 1992(平成4)年ころのことです。以降3年ほどの間に、そういう看取りが3人ほどありました。そうしたケースから、「ああ、こういうふうに人は亡くなっていくんだ」と教えてもらったのですが、心から「いいじゃないか」と思えるようになったのは、もう少し在宅での経験を重ねてからでした。
 もう一人、介護保険が始まった2000(平成12)年ころに、とても学ばせてもらえたケースがあります。胃瘻があった80代男性。当時はヘルパーが介助できなかったし、子どものいない夫婦で、78歳の妻が毎日バスに乗って40分かけて隣町の病院まで通う様子を病院のソーシャルワーカーが見ていて、「内之浦には帰せないですよね…」って相談してくれたんです。
 私は「いや、帰せるような気がするよ、今なら」って答えました。訪問看護がいる、妻の手伝いをしようと思ってくれるヘルパーがいる。妻を横で見守る人がいれば、できるんじゃないかなって。「医療スタッフはいないけど、介護スタッフはいるじゃない」って言って、その1例を大事に頑張ってみようと皆で取り組みました。町立病院にいったん帰って来てもらって、妻には教育をし、その教育の現場をヘルパーに見てもらって在宅がスタートして、自宅で10年くらい看られたと思います。時々ショートも使いつつ、デイの看護師も頑張り、最期は家で見送ることができました。

秋山 医療スタッフはいなくても、介護職と家族と、地域をまるごと教育して、胃瘻の人も帰れるようになったんですね。

能勢 特別養護老人ホームがあって、ショートステイはそこで受けてくれました。1つの事例をスタッフ皆で支えるということと、スタッフ皆が技術を上げる経験がそのときにできましたね。
 ただ、その人たちが年を取って引退したりして、現場の力は変わっていきます。次を育てるというのがすごく重要だな、難しいなって思っています。

自分一人でやってもだめ。“私の”町と思ってくれる人を増やす取り組み

秋山 そうした悩みを抱えながらも、再び地域の力を取り戻すために、引き出すために、積極的に取り組まれています。

能勢 合併したときは、地域の規模が急に大きくなり、守備範囲が広くなってどうしても人出が手薄になってしまうことが出てくる時期がありました。そんな時期を経て、合併して今10年経ちましたが、10年経つと、内之浦だけじゃなくて高山地区の人々も「私の住民」なんです。だから“私の”地域の人たちに、互いの地域を知ってもらおうという取り組みで、いろいろなところを回って行事をしています。見聞きをしてそこの人を知ると、住民も互いに「うちの町」と思ってくれるようになるんですよ。
 今思うのは、その集落だけで解決できなくなることは、集落同士で助け合おうということです。集落の若い人、まだ余力のある人たちが、もっと高齢化している集落に遊びにいく。そこで、「高齢化してもこんなに元気!」という様子を見せてくれることが、受け入れる側のボランティア。互いに学び学ばされ、助け助けられるんです。

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高齢化ってまんざら悪くない。
「不幸じゃないよ」という空気をつくりたい。

 「うちよりもっと大変なところで、こんなに元気にしてる。すごいね!」と思ってもらうことで、「高齢化って不幸じゃないよ」という町のなかの空気感をつくりたいと活動しています。
 日によっては、1日に100~200km も車で走るほど広い地域ですが、どこに住む人たちも皆大事だし、皆大好きなんです。それを守りつづけていくことは1人ではできないので、いろいろな人と手をつないで、「ここにいる人たち、大好きだがよ」と言ってくれる人をたくさんつくる活動をしていきたい。私が行って直接手を出すのではなくて、直接ケアをするのは、頑張ってくれている事業所であったり、地域包括支援センターの若いスタッフや担当者です。彼らが、つながってつながってつながって、広い町を縦横無尽に走っていってくれたらいいなと思っています。
 私は、できるだけその環境をつくる。やりたいと思った人たちがやれる環境を、予算を取ったり、全体のバランスを考えての予算配分になっているかどうかまで、皆で確認し合ったりという仕事にシフトしてきているところです。

秋山 同じように私も、自分が行けばこうなると予測できるけれど、人に任せていたら違う展開になって、少し悩む時期がありました。それを乗り越えるためというか、がまんしつつ育つまでを見守るためには、かかわり合う双方の人に声をかけて元気を出してもらい、うまく回るように調整力を働かせる、という役割が次の展開としてありますね。立場とともに、立ち位置が違ってくるというか。働く人たちがいきいきとすることで活性化していき、その人たちにもだんだんと地域社会が見えるようになってくる。そうした成長が楽しみですね。でも能勢さん自身の「自分が行きたい」という気持ちは、かなりセーブしているところがあるんじゃないですか。

能勢 セーブしてます(笑)。

秋山 してるんだ(笑)。

現場に行きたい気持ちを押さえて次世代を応援します

能勢 行きたくてウズウズするんです。ただ、私の下に入った保健師は17歳下で、将来、彼女が一番手に立たなければならない日がくると思うと、人材をきちんと入れてもらう計画にも口を出さねばならないし、それを考えると、私があまり表に立ち過ぎてはだめ。

秋山 でも、行きたいんですね(笑)。

能勢 行きたい! でも、一番の僻地には、やっぱり皆、1人だけで“行ききれない”んです。私はそこで育っているので何ということはない。だから、もしそこが災害に遭ったりしたようなときには、私が先頭を切って行きます。

秋山 災害時、道が分断され電気が通じなくなるような状態の地域がパッとイメージできて、「行かなければ」と思い立てる優先順位の付け方は、能勢さんが現場から学んだことだと感じます。

能勢 現場大好きです。現場に行かなくなると、メチャメチャ落ち込んでいきます(笑)。だけど、私は保健師だから。個別のケースから政策にしていくというところが、やっとできるようになってきたかなと思います。

秋山 きっとそれが、これからの時代に必要なことですね。

能勢 頑張らなくちゃ! 時々、思い出したように“おばちゃん”たちのところに行っては元気をもらっています。「もう、どうして来なかったの?」って言ってもらえると、「うれしいー!」(笑)。また頑張ろうと思って、帰って来てパソコンに向かうんです。でも、走り回ってはいます。調整というのは、やっぱり現場に行かないとできないので、「走り回っていて捕まらない人だ」と相変わらず言われています(笑)。

秋山 その行動力の源って何でしょうね。

能勢 何だか、動かされちゃうんですよ。役立つ自分も幸せだし、かかわった人が幸せでいてほしいと思うから、自分ではよくわからないんですけれど、こうしなければと思ったときには身体が動いている。看護職って、皆さんそうじゃないですかね。『看護覚え書』のなかで、ナイチンゲールが「その人に没頭できる力がないのであれば、そこを立ち去りなさい」と言っているじゃないですか。だから、“入っちゃう”んだと思うんですよね。(了)


§  §  §

対談をおえて

能勢 秋山さんの優しいオーラに何だか癒されながら、自分の看護観を振り返ることができた対談の機会をいただいて本当に幸せでした。学生時代の経験、保健師になりたてのころの経験から現在までを思い出しながら、かかわってきた一人ひとりのケースや地域に育ててもらってきたんだなあということと、好きにやらせてくださった先輩方があって保健師としての私が今あるのだということを実感した時間でした。立ち位置は今後変わっていくと思いますが、これからも出会いを大事に地域での活動を続けていきたいと思います。

秋山 思わず聞き入ってしまう能勢さんのお話。その初めが看護学校のときの実習体験で、学生時代の恩師が今は看護部長になっている病院のお部屋を特別にお借りしての対談でした。学生時代の能勢さんの一途な思いや姿勢を温かく見守ってくれた恩師と再会し、現状の頑張りも踏まえながら次世代を育てようとしている能勢さんの姿勢もみえ、本当に中身の濃い時間となりました。地域を耕し、育て、そして閉じるまでをみる保健師に学ぶことはたくさんありますね。

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【ゲストプロフィール】
鹿児島県の旧内之浦町にある岸良集落に生まれる。まだ少子化などという言葉のなかった1975年ころ、すでに小学校の同級生は16名。集落には当時から独居高齢者があり、住む人を失くした家が朽ち、土へと還るさまを、日常的に目の当たりにする環境で育つ。県外で学んだ後、大好きな故郷で町の保健師として働きはじめる。止まらない高齢化に不安を覚えた駆け出し時代を経て、高齢化しても幸せそうに暮らしている住民の姿を宝と感じる今、大好きな町を守りつづけたいと今日も町を走る。『人のうちのコタツで寝てしまい、「ありがとう!」と言って帰るような子どもでした。今の子どもたちもそんな地域の温かさを感じてくれたら、将来「帰ってきたい」と思うのではないかしら。子どもたちと高齢者をつなぐ若手の活動を一生懸命応援しています!』

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【ホストプロフィール】
 2016年10月 maggie’s tokyo をオープン、センター長就任。事例検討に重きをおいた、暮らしの保健室での月1回の勉強会も継続、2020年ついに100回を超えた。2019年第47回フローレンス・ナイチンゲール記章受章。

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※本記事は、『在宅新療0-100(ゼロヒャク)』2016年12月号「特集:訪問看護をもっと知る;連携し,地域と患者の生活を支えるために」内の連載記事を再掲したものです。

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『在宅新療0-100』は、0歳~100歳までの在宅医療と地域連携を考える専門雑誌として、2016年に創刊しました。誌名のとおり、0歳の子どもから100歳を超える高齢者、障害や疾病をもち困難をかかえるすべての方への在宅医療を考えることのできる雑誌であることを基本方針に据えた雑誌です。すべての方のさまざまな生活の場に応じて、日々の暮らしを支える医療、看護、ケア、さらに地域包括ケアシステムと多職種連携までを考える小誌は、2016年から2019年まで刊行され、現在は休刊中です。

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