見出し画像

【第14回】「『人として大事にされた経験』が尊厳あるケアの根っこを支えてくれるのです 」

個別性の宝庫である在宅医療の世界には、患者の個性と同じように、ケアする側も多彩で無数の悩みをかかえています。悩みにも個別性があり、一方で普遍性・共通性もあるようです。多くの先輩たちは、そうした悩みにどのように向き合い、目の前の壁をどのように越えてきたのでしょうか。また、自分と同世代の人たちは、今どんな悩みに直面しているのでしょうか。多くの患者と、もっと多くの医療従事者とつながってこられた秋山正子さんをホストに、よりよいケアを見つめ直すカフェとして誌上展開してきた本連載、noteにて再オープンです(連載期間:2017年1月~2018年12月)

【ホスト】秋山 正子
株式会社ケアーズ白十字訪問看護ステーション統括所長、暮らしの保健室室長、認定NPO法人 maggie’s tokyo 共同代表
【ゲスト】米澤 純子(よねざわ じゅんこ)
文京学院大学保健医療技術学部看護学科教授

―――――――――――――――――――――――

【対談前の思い・テーマ】
①「人として大事にされる体験」を、学生にもっと味わわせてあげたい。
実習などでも,厳しく対応されたりしてつらい思いをしている学生がいます。尊厳ある看護の実践者として巣立っていけるよう、「自分自身が大切
な存在である実感」「安心できる場で人と触れ合う喜び」を、学生にはいっぱい体験してほしいと思っています。
②人生、生活のなかで、入院はほんの一部に過ぎないのに…。
病院にいる“病者”としての患者しかみていない学生に、家で暮らすその人、地域に暮らす元気な高齢者と出会ってほしい。病院がその人のすべてではないとの気づきの場を与えてあげたいです。

看護の可能性;看護がケアするのは“身体”だけではない

米澤 保健師時代、ちょうど認知症が世間で騒がれ始めたころで、物忘れのひどい独居の人を近隣住民が問題視して、保健師に相談が入る事例が何例か続きました。普通に穏やかに暮らしていた人でも、結局老人ホームに入らざるを得なくなってしまうようなケースです。当時は介護保険がまだない時代で、保健師が訪問看護事業を担っていて、私は「本来お家で暮らせていた人が、お家にずっと居られるようにしたい」と感じていました。
 保健師として働き、地域のことも少しわかってきて、でも自分で解決できないモヤモヤ感を抱いていた私は、その後大学で研究・教育の立場に戻るわけですが、秋山さんは私の抱いていたモヤモヤの解決を現実化できていると感じています。

秋山 たとえ独り暮らしであっても、高齢で、がんで、認知症とか、通常で考えたら無理だと思われがちな場合でも、「ここにいたい」という主張や意思が確認できたり、前からそう思っているということがわかれば、それを支援し続けます。それは、特殊というより、当たり前のように思ってやってきたのですが、外から見ると「どうしてやれているのかな」と思われるみたいですね。

米澤 そう。介護保険ができる前はとくに、ですね。

秋山 保健師の視点というのは、個別のケアだけで終わらず、個別のケアを通して集団の普遍的な問題点に気づき、地域全体を見てアプローチしていくことが必要で、そこに専門性が発揮できると思っています。
 私たちが訪問看護をする対象も、2人以上は集団・グループです。介護保険が始まり、訪問看護は個人としての契約となりました。だから、周りの家族は、まったくとは言わないけれども、報酬上・点数上は関係がないと言ってしまえる状況になっています。ただ、家族全体を見るというのが、保健師の視点としては当然あるように、私は、訪問看護としても家族を見る視点、地域を見る視点は必要だと思っています。それは余計なことではなくとても大事なことだと、介護保険が始まる前から思ってきて、介護保険が始まったとしても、それは手放してはならないのです。

米澤 介護保険の契約の制度になったとしても、看護の基本は変わらないと思います。本人が幸せでいるためには家族が幸せでいることが大切で、家族だけではなく、地域住民も幸せでいること、それが本人の安心した暮らしにつながるというのが、公衆衛生的な捉え方。それは看護の基本でもあって、制度が変わっても、訪問看護師であっても保健師であっても、共通しているはずだと考えています。

秋山 全体を見る見方に加えて大切なことは、訪問看護の立場だと、個別の対応をきちんとしてこなければなりません。その人に本当に必要な個別ケアをきちんとやりつつ、そのとき得られた情報から全体を見る。全体のなかでの「今日のケア」がもつ意味を正しく捉えておかないと、かかわりの方向性がずれてしまうことがあります。
 例えば、褥瘡へのケアを目的として訪問看護を依頼された場合、ひらすら褥瘡だけ見ていて、全体を見ていないこともありえます。それがターミナルステージだったら、褥瘡ケアは最優先事項といえるか。この人は今、人生のどの位置にいて、そのことを本人がどう捉え、家族はどう思っているのか、という全体像のなかで、褥瘡のケアはスピーディに行い、家族と話す時間をしっかりとるべきとか、そういう優先順位がつけられるかどうかですよね。
 それがすごく大事なのに、ひたすら褥瘡の処置に走ってしまう。そうすると会話をしなくて済むので、変な言い方ですが楽かもしれない。でも実は、褥瘡が治る・治らないよりも、人生の終わりに近づいていることを、患者・家族はどう受け止めているのか、それについて悔いがないように、看護師がどうかかわれるかを考えることが大事になってくる時期なのかもしれません。そこに気づくには、全体を見るだけでなく少し先を見る、つまり推論ができるかがとても大事。それは今の自分の位置と全体像が見えないとできないんですね。

米澤 秋山さんの看護は、そうした先読み・予防的な視点とともに、家族や本人をやんわりと教育しながら導いていく力があり、とても大切だと思います。ケアされている側の患者や家族がもつ、その人の力を引き出している。そのために、本人がどうしたいかを大事にかかわっていると感じています。「何をしたい?」「どう生きたい?」「どう生活したい?」。まずそこがあり、それを実現するために医療の知識があり、看護のケアがあり、環境を整え、それを看護の視点からケアしていく。それが当たり前で、大前提なんだろうと思うのですが、現実には「どうしたい?」と聞けない。介護者がかわいそうだからと介護者に寄ってしまって本人が置きざりだったり、本人の意向だけで家族が置きざりだったりすることもあります。

秋山 私としては、狙ってというよりは、「ああ、結果としてそうだったな」という場面がけっこう多いですよ。そういう意味では、あまり理論的ではないというか、わりと実践知・経験知に基づいて動いてきたなと思っています。

米澤 ケアは、人間対人間なんですよね。対等で、支援者と支援を受ける側ではなくて、対等な立場で患者を大事にしているから、自然な言葉が出る。それで、患者も「あら、そうかしら」って自然に応対する。
 学生が、白十字訪問看護ステーションの訪問看護師さんにインタビューさせてもらったことがあり、そのとき「人の喜びというのは生活のなかにたくさんあって、例えばお風呂の気持ちよさなどの一つひとつを大事にしているのよ」と、学生に語ってくれました。その人が学生に語ったなかで、患者が「帰り、気をつけてね」っていう言葉一つに、「娘のように」心配してくれる役割が患者にある、というエピソードがありました。人間対人間だとお互いを思いやる言葉が出てきて、援助される立場ではなく、対等なコミュニケーションが生まれる。それは患者を元気にしているんじゃないかなと思います。

秋山 在宅の場だから、対等にならざるを得ないというか、相手にとって、そこは自分の居場所であり、本人のお城なんですよね。そこを一つ間違うと、病院と同じで上下関係になってしまう。ケアの基本は同じだとしても、場の違いは病院と在宅で大きく違うのだということを体感・体得していることがとても大事だと思います。

米澤 そうですね。八丈島に学生を実習に連れていったときに、それまであまり評価されていなかった学生が、八丈島ではいきいきとしたのです。「『学生さん』じゃなくて『○○さん』って名前で呼んでもらえた!」と喜んで。
 きっと、人として大事にされるということを体感したのだと思うのです。だから、お家とか、この「暮らしの保健室」もそうですけど、「居心地のよい空間」「安心して居られる場」で、自分自身を大切にしてもらえる体験をいっぱい学生には味わってもらいたいと思っています。普通の高齢者と普通に学生が触れ合えるフィールドを築いていきたい米澤 学生たちとフィールドワークに入っているつつじ野団地註の方たちも、居心地のよい空間で安心感を学生たちに味わわせてくれるのです。
 つつじ野団地のコミュニティサロンには麻雀教室もあって、訪れた学生がジャラジャラと教わるわけです。学生が行くだけで、皆さん丁寧に麻雀を教えてくれて。学生も、自分が受け入れられるとか、大切にしてもらえるのがとてもうれしいんじゃないでしょうか。
 そういう、人が普通にコミュニケーションをとって、信頼し合えていく経験をたくさん学生にしてもらいたいです。そういう感覚をもっている人が、在宅の基本にある“何気なく普通に人を大事にする”というところにスッと入れるように思います。

秋山 「暮らしの保健室」に来られる普通の高齢者と、普通に会話したり、米澤さんが試行しているつつじ野団地のコミュニティサロンに学生が出るということは、新たな体験・経験を引き出します。まったく見ず知らずの、しかもジェネレーションが違う人たちと、どう接したらいいかという体験が、安心感のある環境のなかでできる。
 学生たちに仕掛けつつ、相手(高齢者)の側も、学生が来ることで元気になるという、その相互作用を引き出しているわけです。しかもそうした場所は、決して上下関係ではない。「暮らしの保健室」もまったくそうなんだけど、逆に高齢者が若者たちを気づかう姿が見える。若者たちを育てようと思う住民たちの姿が見える。それは、何よりもプラスのメッセージであり、すばらしい実習の場だと思うんですよ。その点を大事にして、場をつくろうとしている。それが、米澤さんのもっている視点、新しいきっかけづくりの視点だと思います。

米澤 高齢者の健康づくりと言いつつも、高齢者は認知症になってしまうとか、皆に迷惑をかける存在だというメッセージが社会にありすぎる気がして、すごく残念だなと感じています。
 つつじ野団地を盛り立てている退職組の役員の方たちは、「日本一の団地にしようと思って町づくりを始めたんだよ」というエネルギーが凄いんですよ。病院では、入院して患者になったとたんに、パジャマを着せられて、支援される側になってしまうけど、本当はそうじゃないと学生には気づいてもらいたい。元気な高齢者とか力がある退職組の人たちとか、元気な力をもった人が地域にはたくさん暮らしていることを、学生のうちにしっかり知ってほしいと思っています。
 東京家政大学の看護学部がある狭山市に、住民が自分たちの手で社会福祉サービスを作り上げた地区があると聞き、「どうしてそれが築けたか」をぜひ知りたい!と思ってつつじ野団地の住民にアプローチをし始めたことが、団地の住民たちとのかかわりの始まりです。「どうやってこの仕組みをつくったか、教えてください」とお願いしたら、学生と共に話を聞く機会をもらうことができ、すごく丁寧に教えてくれたのです。
 今は少しずつ信頼関係を築いてこれたのか、先日も、「管理組合の資料がほしいって言ってたから用意したよ」って、わざわざ日曜日に携帯に電話をいただいたり(笑)。70代の代表の方が、しみじみと「この年になって初めて知ったよ。人の役に立つのが、こんなに喜びになるなんて」って頰を赤らめながら話してくれたことも、とてもうれしかったことの一つです。
 人との交流から生まれる喜びってたくさんあって、町のなかに学生がちょっと行ってそれを体験できる場所があって、地域の人も学生が来ることでそれを実感でき、それが認識し直され、お互いの力が生まれ、何かが生み出されるという場を、少しずつでもいいから築いていきたいと思っています。

秋山 そのおおもとは、やはり人として大事にされ、人の役に立つことの意味に立ち返ることでしょうか。本当は誰もがそうありたい、というところが原点かなと思います。

米澤 看護の教科書には、看護の機能としてケアとか、連携、教育、環境づくりとありますが、看護の可能性ってそれだけではない。看護の視点から仕掛けをつくり、地域(まち)をつくる。それを秋山さんは実践している。「暮らしの保健室」をつくって、誰もが安心してここに来て相談できる。そして、ここで人との交流が生まれる。ボランティアさんは、何かやれることがあって、喜んでくれたらうれしい。来た人もうれしい。うれしいことばかりが広がるわけですよね。看護にそうしたことができると、皆に知ってもらいたいと思っています。
 つつじ野団地でもそういう場づくりに看護として貢献できればと取り組んでいますが、最初のころは、「看護学部の人たちが来るって聞いたけど、俺たち病気じゃないから」と断られたのです。「何しに来るんですか」みたいな(笑)。

秋山 でもまあ、そういう反応も受け止められるというか、なるほどなと思いますね。健康な人にとっては医療は要らないもの。

米澤 会いたくない人なんですよね。

秋山 会いたくない。でも、実は健康のどのレベルであっても看護の対象であると、看護師は習っているわけです。そこで決して上からではなくて、「教えてください」と請うようにアプローチして、ちゃんとフィールドをつくっているところは偉いですよね。しかもさりげなく2025年に備えているわけです、結果として。

米澤 つつじ野団地はバブルのころに分譲された団地ですから、当時移り住んだ皆さんが、同時に高齢化していきます。そんななかで、管理も誰かに任せるのではなくて、管理組合とか、自治会とか、その組織も自分たちでつくってこられたのです。団地のなかに法律が得意な人、会計が得意な人などがいて、自分たちで「日本一の町をつくろうと思ってがんばってきた」と教えていただきました。

画像2

看護教育を通して、患者が「したいこと」に耳を傾けられる看護師、
「どうしたい」「どう生きたい」を支えられる看護師を育てたい!

 そうやって築いてきた町で、安心して住み続けたいと思う一方で、高齢化はやはり心配。まちづくりのリーダーシップをとってきた人たちが、70代になり後期高齢者が迫ってきたときに、「自分たちは、このまま元気でいられるんだろうか」という不安を抱いていて、ちょうどそのときに、たまたま私たちがアプローチした。そこで、お互いにできることを何か考えましょうと話が進んでいったのです。若い世代が入ってきてくれたら…という住民側の希望に、学生の力がお役に立てたらと思っています。お互いに話し合って、「やれることを見つけていきましょうね」と、まだ「これをしていきましょう」というところまでは行ってないけれど、少しずつ進んでいくお互いに楽しい時間を過ごしている状況です。

秋山 地域づくりは発生しつつあるんですね。

米澤 あると思います。
 学生には、病院に入院してパジャマを着ている人が、お家に帰ったらどうなんだろう? と、元気な高齢者の姿を見ることで考えるようになってほしいなと思うんです。
 人の人生とか、生活において、病院は一部であって、だからといって目の前を通り過ぎればOK というのではなく、入院してくる前のその人はどうだったんだろうって、興味をもってもらいたいなと。そういう意味では、病院の実習で出会う高齢者じゃなくて、元気な高齢者とか、元気な地域の人にたくさん会ってほしいと思っています。

秋山 元気なんだけれども、やっぱり行く手に迫る超高齢社会に対して、それなりに不安も抱き、それを何とかしようと思っている人たちもいるところに、では看護師は何ができるのかということを考えられる材料になれば、すごい学びの場です。

ケアラーの尊厳が守られてこそ、尊厳あるケアができるはず

米澤 白十字訪問看護ステーションで、学生が卒業研究をさせてもらう際、「まず事例検討会に出てね」「そこが訪問看護師の成長の場だから」といわれ、学生と一緒に参加させてもらってきました。経験しているだけではなく、それをちゃんと皆で振り返る。自分だけで振り返るのではなく、他人との語りのなかで振り返って、その意味づけをして概念化する、それを秋山さんはコツコツとやってこられてて、だからこそ訪問看護師が育っていて、自分の大事にしていることを学生に語ってくれる看護師に育っていると感じています。

秋山 そこで何を求められるかというと、自分の言葉できちんと、自分のやっていることを表現することなんです。訪問看護師は1人で訪問しますが、そのときに全部何でもできると思うのではなくて、「ここまでは考えたけど、ここから先がちょっと不安だ」とちゃんと見分けて、きちんと人に聞ける。そういうことができるかどうかが、独り立ちするときに重要なんです。自分の段階がわかって、こう考えてこうやってきたんだけど、本当にあれでよかったのかな?とほかの人とディスカッションして確かめ、「やっぱりあれでよかった」と思う部分、「あれでは足らなかった」と思う部分に気づき、ほかの人から別のアイデアをもらって、またトライアルしていく。そこでも上下ではなく横並びなんですよね。看護師一人ひとりが大事にされているし、そう実感できるのだと思います。
 在宅のケアは、オリジナリティというか、本当に個別だと思う。そこに向かう看護師も、やっぱり個であり○○さんという個人名なのです。看護師さんというよりも、秋山さんというふうに言われるから。訪問看護師さんとひとくくりにされる場合もあるけれども、固有名詞で呼んでもらえる。私たちも、もちろん「患者さん」とは呼ばないんですけどね。
 さっきいみじくも言われたように、人として大事にされる経験というのが、人を大事にする、すごく基本的なことだと思います。だから、学生の実習に関しても、一人ずつの学生がすごく大事にされるようにと、その点は看護師間で共有しています。
 「人として大事にされる経験」って、あまり今までいわれてないことかもしれないですね。八丈島に行った学生が、「学生さん」じゃなくて名前で呼ばれたという経験って、大事だったと思うんです。そのとき、その人自身の尊厳が保持されたのだと思います。ケアをする人自体の尊厳が守られていなかったら、尊厳のあるケアはできないでしょうから。

米澤 在宅の場では、専門的なケアをしてくれる人は、〇〇さんっていう、そういう個性がある人が来てくれる。もちろん患者にも個性があって、1人の人としてという、その人間対人間のふれあいで癒されますよね。そこに交流が生まれるから。私は、それが白十字の訪問看護にあるんじゃないかなって感じています。そこはなかなか伝えるのは難しいけれど、カンファレンスや、訪問看護師さんの語りのなかから学生がつかみ取る。
 病気をしていてもお家にいることで、ちゃんと社会的役割を果たしているということに驚いたり、病院にいるときと患者の表情がぜんぜん違うとちゃんとわかって帰ってきます。しっかりと、人と人の会話をして帰ってくる。病院でも患者と会話しているわけだけど、会話の深さとか、人間らしさが違うわけなので、学生はそこを感じて帰ってきています。

秋山 一方で、時として「あんな雑談をしてて、いいんですか」という質問がくることもあります。病院では疾患のことしか話をしてないから、在宅で話していることが雑談に見えるわけです。「雑談に聞こえるかもしれないけれども、実は雑談ではないのよ」と、学生に教える場面も在宅ではあります。
 一見雑談のようでも、昨日のテレビの話、今日の天気の話、例えば誰かと喧嘩をした話など、その人の今日の話題、それを引き出すような話をしながら、「今日の機嫌の悪さはそこからきてるのね」と気づけることがある。だから、調子が悪そうに思うけれども、ちょっと愚痴も聞きながら、身体ケアをしつつ、最初から「機嫌が悪いんですね」とは聞かないで、雑談めいた話のなかからアプローチしていますね。
 学生や新人の看護師には、そこまではすぐには見抜けないので、雑談をしていると思ってしまう(笑)。でも、それに対しては、「雑談に見えた? 最初に見たときにすごく機嫌が悪そうにしていたので、ちょっと話題を変えながら理由を探っていたのよ」という説明をしてあげられることも、訪問看護師には求められますね。

米澤 そもそも、そうした雑談を訪問看護師に言えるって、患者が安心しているということ。病院の看護師には言えない。「患者さん、そんな話を病院の看護師さんには話せてた?」って私なら言ってあげたい。

秋山 学生だけではなくて、新人の訪問看護師だって、何年か病院を体験して在宅の看護を始めたときに、なかなか会話のきっかけが見つけられなかったりして苦労している人もいるわけです。なぜ、そんなふうにスルッと普通に生活のなかのエピソードを拾って、わりとスーッと会話を引き出していくのか。それがとても不思議に見えるみたいですね。

米澤 お家に行ったら、いろんなものが飾ってあったり、その人の大事なものがあったり、いっぱい会話を引き出す手段がある。在宅って、その人の大事にしているものを一緒に共有できる楽しい場でもあります。

秋山 そうした在宅という場、地域という場に学生のころから出ていることは、とても大事だと思います。「暮らしの保健室」に入ってくれている東京家政大学の社会福祉学科の学生たちは、6月ぐらいに地域デビューを果たすスケジュールで、11~12月ころになるとぜんぜん顔つきが変わるというか、シャキッとしてきます。シャキッとしつつ、ちゃんと話しかけられる人ができていく。つつじ野団地に入っている学生たちも、いろいろ感じ取っているようですね。

米澤 2月につつじ野団地で開催した、学生の現地での活動報告では、自らの学びを振り返り、まとめ、発表できたことで大きな達成感を得たようです。学生は、サロンに参加させてもらい参加者のお話を聞くうちに、「人との交流から自分ができることを見つけ、一人ひとりが必要とされていると実感することが暮らしの大きな活力になっている」のだと気づき、学びとしています。病院実習で出会う患者も、患者としての生活が中心なのではなく、つつじ野団地での暮らしのような自分らしい生活を送れるよう一緒に考えていく大切さを感じたと、学びを看護と結び付けての報告もしてくれました。

秋山 在宅と病院とは、決して対立する概念ではなくて連続しているんだけれども、患者という対象を看護の視点で理解するという意味においては、急性期はやはり、生活してきたその人の切り取られた一瞬なのです。日常のなかでの支援は何をしたらいいのかと考えたときには、本当にまるごとを見ないといけないと思うので、いろいろな体験をしてもらいたいですよね。

米澤 つつじ野団地の「ささえ愛」のある場で、人の温かさ、人を大事にすることの大切さ、人から大切にされる喜びを実感として体験できることは、学生の豊かな財産になると思います。この温かな交流によって、学生はつつじ野団地で「腰痛予防の体操を一緒にしてみたい」など、いろいろなアイデアを口にするようになりました。学生には、自分自身の「○○したい」も大切にでき、患者の「○○したい」も問いかけられる看護師へと育ってほしいと思っています。(了)

§  §  §

対談をおえて

米澤 秋山さんには、学生の実習や研究活動を通して20年来お世話になってきました。私は、いつも秋山さんの実践活動を通して、「対象者の力を引き出す看護」と「看護の可能性」を実感させていただき、元気と勇気をいただいてきました。学生と共に地域で活動したいという私の願いがつつじ野団地の皆さんのご協力で実現しつつあります。今回、この活動を通してこれまで大切にしてきた看護への思いを秋山さんと共に振り返ることができたことをとても嬉しく思います。今後も、学生と地域住民の方との温かな交流から生まれる喜びや活動にワクワクしながら一歩一歩進んでいきたいと思います。

秋山 ずいぶん長い間、米澤さんとは調査研究なども含めて一緒に活動してきましたが、そのなかで米澤さん自身も深みを増し、教育者として大きくなっている姿を、今回の対談で感じることができました。また、地域をみる目を学生時代から育てたいと、つつじ野団地をフィールドとして、学生の活動の場を拡げ、そのことがつつじ野団地の住民活動にも影響を及ぼし始めていることがうれしい限りです。次の世代を育てる教育者が現場をもつことの意味も深いと思っています。

――――――――――――――――――――――

画像3

【ゲストプロフィール】
卒後、看護師経験と船橋市での保健師経験を経て、大学に戻り看護師の教育・育成の道を歩み始める。研究の一環で「暮らしの保健室」に巡り合い、ウォッチャーとして密着し続けること数年。場としての「暮らしの保健室」の意義と魅力は他地域でも生かせるはずと、今は埼玉県狭山市でのフィールド「つつじ野団地」でさまざまに取り組み、かかわりを続けている〔埼玉県が平成28年度に立ち上げた「看護系大学と連携した健康づくり人材育成事業」の委託を受け、東京家政大学看護学部が立地する狭山市(長寿健康部)から紹介のあった「ささえ愛つつじ野」での活動が開始〕。受け入れ側の住民、地域デビューする学生たち、どちらもが笑顔に元気になってくれるのがたまらない仕掛け人。

画像4

【ホストプロフィール】
 2016年10月 maggie’s tokyo をオープン、センター長就任。事例検討に重きをおいた、暮らしの保健室での月1回の勉強会も継続、2020年ついに100回を超えた。2019年第47回フローレンス・ナイチンゲール記章受章。

―――――――――――――――――――――――

※本記事は、『在宅新療0-100(ゼロヒャク)』2017年3月号「特集:入院させない在宅医療」内の連載記事を再掲したものです。

画像1

『在宅新療0-100』は、0歳~100歳までの在宅医療と地域連携を考える専門雑誌として、2016年に創刊しました。誌名のとおり、0歳の子どもから100歳を超える高齢者、障害や疾病をもち困難をかかえるすべての方への在宅医療を考えることのできる雑誌であることを基本方針に据えた雑誌です。すべての方のさまざまな生活の場に応じて、日々の暮らしを支える医療、看護、ケア、さらに地域包括ケアシステムと多職種連携までを考える小誌は、2016年から2019年まで刊行され、現在は休刊中です。

#在宅医療 #訪問看護 #地域医療 #訪問看護師 #対談 #出版社

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?