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(翻訳)バーンゼン『世界法則としての悲劇的なものと形而上学的なものの形態としてのユーモア』(1):序言~緒論


訳者前書き

 下掲及び続稿は、ドイツの哲学者ユリウス・バーンゼン(1830-1881)の掲題書(原題:Das Tragische als Weltgesetz und der Humor als ästhetische Gestalt des Metaphysischen)の邦語訳。バーンゼンは、ショーペンハウアーの影響の下、その悲観主義を継承しつつも独自の立場を打ち立てた思想家、また「性格学」(Charakterologik)の提唱者として知られる。同書は、バーンゼンが哲学を修めたテュービンゲン大学の創立400周年(1877年)を記念して著された小冊にて、著者の思想の基となる「実在的弁証法」(Realdialektik)の梗概と共に、その帰結としての悲劇的世界観を示したもの。翻訳の底本として、1877年の初版本を用いる。
 哲学書の翻訳は門外漢の余技なれば、諸賢の𠮟正を頂ければ幸いに存じる。

目次

序言
緒論


第一章 悲劇的なもの
 第一節 悲劇的なものの特徴的前提
 第二節 倫理的なものの根本的本質における悲劇的なものの条件
 第三節 日常生活の悲劇に関する下位の心理学のために
 第四節 純粋に経験的な把捉における人生と芸術における悲劇的なもの
     暫定的な総括
 第五節 急展開と破局
 第六節 「罪」と「運命」の悲劇的もつれ

第二章 ユーモア
 第一節 悲劇的なものに対するユーモアの一般的関係
 第二節 情念とユーモア
 第三節 ユーモアの客観的根拠
 第四節 ユーモアの世界総括

(題)世界法則としての悲劇的なものと形而上学的なものの形態としてのユーモア

 (副題)実在的弁証法の限界領域からの論考

 ユリウス・バーンゼン博士 著

 「主体はその崇高性の全ての所有を、背景に負っている。それは…原負債である。災は…偶然より来る。全ての運動は厳格な客観的必然性という基盤において生起する。」(フィッシャー『万有の法則としての悲劇的なもの』)

 毎歳、故郷なる棲宿の地の鍬入れに誘われ、渡り鳥が忠実に帰還する如く、永遠に若き長者のための、400の星霜を経たる精神の滋養者の晴れの日にあたり、年老いたる若輩者が、25年の放浪を経て来たり、劫掠的迷走からの僅少の収穫を、箕の容るる限りに供物及び謝礼としてその懐に捧げんとす。

序言

 本書は、ドイツの書肆との好ましからざる経験により、私の責めなくして完全なる発表がいまなお遅れている「実在的弁証法」("Realdialektik")(訳者注:実在的弁証法を展開した主著『世界の知識と本質における矛盾』は1880年発表)の一端を示すものである。一方同時に、本書は、私が25年前にテュービンゲン大学哲学部の研究会に登場した際に行っていた研究からの連続性に欠けるものではないことから、独立の性格を主張することもできる。私の世界観において絶え間なく実行された発展を提示するために、本書はいよいよ重要であり、同時に、一般的な諸問題の探求に独自の道を拓くことを最初に試みた素材において私の世界観を験すことにも適している。
 そのため、本書は、親愛なるシュヴァーベン(訳者注:テュービンゲンが所在)の祝祭のために持参することを企図した、より大部の贈物の代わりとすることに全く値しないとは見なされないだろう。完全な著作と比較して学問形式の厳格と緊張に劣ることは、本書の内容に関心を示してもらうことを期待できる人の範囲がより広いことをもって補填されるだろう。機会的成果物としての時間的切迫からくる欠点は、自らの体験により獲得された真理のかなりの部分を注入したことによる熱心さの、より温かみのある強度によって相殺されるだろう。
 それゆえ、この記念論文は謙虚ながらも確信を欠かず、多くの、より輝ける同志の列に参じるものである。
 ラウエンブルク・イン・ポンメルンにて 1877年5月26日
 ユリウス・バーンゼン博士

緒論

 普遍的・美学的なもの及び単純・美的なもの
 
ヘーゲルとフィッシャーの美学は悲劇的なもの(das Tragische)に関しても弁証法的図式に則って構成されているため、実在的弁証法にとって、この分野には既存の業績があるに違いないと思われるかもしれない。しかし、それは極めて限定的にのみ妥当することである。なぜなら、現象の矛盾関係を言葉の上で(verbaliter)演繹するだけではなく、実在上(realiter)でも導きだすことが肝要であるのに際して、対立的に仕立てられた概念の見かけの運動がいかに不十分であるかがここでも明らかとなっているからである。
 実在的弁証法がその名前とその課題に忠実であろうとするならば、体系の欠陥を間に合わせの概念で弥縫することを軽蔑しなければならない。それは、言語弁証法(Verbaldialektik)(訳者注:ヘーゲルの弁証法を指す)が未だかつて断念することができなかった手法であり、かつては堂々たる価値を有したその方法論への最後の尊敬を、正反対に顛倒せしめるのに資したものに他ならない。実在的弁証法にとっては、定立(Thesis)と総合(Synthesis)は何の重要性も有さず、反定立(Antithesis)が全てであるため、真に悲劇的なものの範囲が著しく狭められている。しかし、悲劇的なものは広がりの大きさを失った代償として、把捉と根拠づけの深さを十分に得ている。なぜなら、悲劇的なものの中心が全ての倫理的なもの(das Ethische)と一致しているため、ここでは美学と倫理学が不可分なものとして一体に溶け合っているからである。しかしそれは道徳ぶった美学といった意味においてではなく、むしろ2つの対象の本質的同一性という根本的な意味においてであり、まさにそのように、ユーモアの美学が実在的弁証法の形而上学の事実的結果の考察と一致している。
 そのため、実在的弁証法の立場にとっては同時に、形式(Formal-)美学者と実質(Gehalt-)美学者との間の論争が、ついでに自ずから不要なものとなる。なぜなら、実在的弁証法にとって、特殊な美学的なものとは、普通には現実的なもの(力)、人倫的なもの(意識のある個の意志の諸関係)、真なるもの(実在の矛盾の認識)という範疇に入れられるものと同じ対象の、ひとつの特殊な考察の仕方にすぎないからである。
 それをもって、実在的弁証法の美学は、単純・美的なもの、崇高なもの、喜劇的なものという美学の基本形式の従来の分類に直接対応するとともに、ひとつの世界把捉であることも実証される。それは、全く前代未聞の突飛な物と関わるのではなく、旧来の学問のあらゆる伝統と密接な接触のある世界把捉である。なぜなら、例えば美学の最新の文献が強調していること:美学的に知覚する主体の内的な共運動(ロベルト・フィッシャーの説)、美学的印象における象徴的なもの(ヨハネス・フォルケルトの説)(※)(訳者注:※は原注。以下同様)は、実在的弁証法の創設者(訳者注:バーンゼン)が25年前に美学を構想した際に前提としたものであり、その構想は当時の博士論文としてテュービンゲン大学哲学部に寄託されている。博士論文において、主体と客体の力の均衡の知覚は、単純・美的なものの印象における本質的なものとして提示され、ユーモア性(Humoristik)はすでに、そして恐らく最初に、ショーペンハウアーの悲観主義と極めて密接な連関にもたらされた。
(※)実在的弁証法は諸本質の形相学をも進んで名乗るものであるため、美的なものが、観ることに対して内的本質を開示することを要求し、また、芸術における形式が、自ら発生したものの如く見えるべきだという要求にも賛成する。なぜなら、そうでなければ形式が内的本質を開示することより以上にそれを隠蔽するからである。概して、実在的弁証法の美学は、形式と内容の矛盾は醜いのものであることを認める。それは、矛盾の中から何も我々に向かって語らず(zu uns sprechen)、そこにある何者も我々に語りかけない(uns ansprechen)場合であるが、美学が矛盾の中に喜劇的・醜悪なものを包摂するなら、美学は矛盾の実在性を復権させ、矛盾関係の中から真理が、まさに実在的弁証法の真理が輝きだすように仕向ける。より適切に、実在性とより一致し、より直感しやすく、より直感的に理解しやすいようにそれが行われるなら、元々はかさばって重厚な喜劇的なものが、精神的で霊妙なユーモアのあるものにより完全に浄化され、悲劇的なものは空疎な蜃気楼(Fata morgana)に世界の本質を反映するのではなく、世界の本質を眼前にもたらすのである。

 それゆえ、ここに提示されるものは、年期によって濁りの取れた発酵を欠いておらず、一時的なつまらない理論に対する試験を経たものであり、つまらない仮説よりも時の試練を経たものである。そうした仮説は、現在は「正確な」経験論者によって大騒ぎを起こしているものであるが、じきにまた忘却の冥土に降っていくものである。
 しかし我々は、何も学ばず何も忘れない者の一団に数えられることを望まない。我々は安心していくらかの濁った澱を地面に残す。我々はいくらかの愉快な思い付きを、学問的気まぐれを否認しつつ、進んで風まかせに撒いてきたが、定義、分類する図式論よりも優れた流儀であるので、快適で気ままな「一本の線も引かない日は一日もない」(Nulla dies sine linea)暮らしぶりが実に不快で重苦しい「ひとつの実験をしない日は一日もない」(Nulla dies sine experimentia)に変貌してしまった。しかし、周知のように実験室の解剖係は悲劇に関して「実験は無価値な死体で行うべし」(experimentum fiat in corpore vili)の指示を出さないので、「それには曰くがある」(and thereby hangs a tale)ということが我々の学説以外にも言える。なぜなら、自分みずからの体験を永遠の相の下に(sub specie aeternitatis)捉え、それを取り込み、把捉する者でなければ、詩人と同様に美学者にも適していないからである。カントの「無関心」(Interesselosigkeit)の必要な分は前提されているが(自分の知覚から内的に離れなければそれを客体化することはできない)、生きた知覚内容の付加も、冥界に蠢く幽霊のような図式から血の通った形態を作るのに必要なだけ前提されている。それゆえ、実在的弁証法は「意志を離れた」(willensfrei)認識に関して形而上学と同様にせせこましく几帳面な捉え方をせず、主観的に共振する倍音であるとの非難にも臆さない。なぜなら、倍音なくして音色がないのと同様、脈動する血が血管を輝き通る様を信じることなしに肉色に着色を加えることはできないからである。いわゆる客観的な冷静さは、眼が顕微鏡を通じてはっきりとした輪郭の下に標本に到達しようとする際に視筋が相応の調整の必要を感じる際に、自ら調整されるものである。
 それに応じて、この美学は芸術よりもむしろ人生から多く例証している。なぜならこの美学は、本質的に先立つものを、個別的偶然性の特徴があることをもってぞんざいにするために、二次的な生産物を絶対の規範として通用させる概念の神格化には組しないからである。実在的弁証法は、個別存在と普遍的概念の不一致よりも厳しい必然性を知っている。その不一致という必然性は、結局そこに全てが帰結されるものであり、ヘーゲルにおいて悲劇と称されるものである。実在的弁証法は、むしろ悲劇を「人間の最奥」において直接捕まえ、ここで見つかった小世界(mikrokosmisch)の法則を大世界(makrokosmisch)の法則として宣言する。なぜなら、実在的弁証法にとって世界は同質の個体の諸本質の存在的総体(existentielle Gesamtsumme)に他ならないからである。
 美的なものについては仮象があるに過ぎず、悲劇的なものについては苦い真剣さがあり、喜劇的なものについてはその両者がある。それゆえ、ここでは実際に言語弁証法の段地を総合の高原へと昇っていくかの如き観がある。
 そこで、詩人が語源的あら探しをする言語学者に対して「美的なものを照らせ」と主張するのは正当である。
 なぜなら、知識に渇きを癒す意志が、真理を要求する意志であるのと同様に、美学的に振る舞う意志は、仮象に満足して、知性の佳肴を通じて仮象に充足を啜るものである。その限り芸術と学問は生来の対立関係にあり、一方の意志は全てに欺かれることを欲し、もう一方は何物にも欺かれまいとする。それゆえ従来から芸術の徒は、美的なものが、生存(Dasein)を巡る戦いにおいて唯一の混じりけなき静寂の時を与えるものであると確約してきた。美的なものにおいて、意志が戦いを続ける力を溜めるために休養するのであり、芸術は世界の全時期を通じて不可欠のものであって、失われた楽園への還帰、地上における天国の夢だという。そして彼らは、仮借なき悲観主義に帰還を期して赴くために、自他に「幻想の価値」(Werth der Illusion)を称揚することをやめなかった。
 しかし、これらすべては、和解の兆しあるものは全て欺瞞であり妄想であることを透徹して眼前に見る実在的弁証法の真理を何も変えない。意志が仮象を通じてそうした自己欺瞞を必要とするなら、それはすでに自己分裂という事実を含んでいる。
 しかし、意志は最深奥では一者であるため、分裂状態から、現象的、事実的統一に対応した形而上学的統一への結合の実現へ向けた憧れをやめることはない。そして、美的なものを目前にして意志を際限なく魅惑するのは、美的なものの知覚に際して抗しがたく生じるところの、本質的に永遠に実現されないものが、かく存在的に実現されることへの瞬時の信念である。そこで意志は、平和の天冠に巡り照らされているように思う。しばらくの歓喜のひと時に全生成の実在を貫く分裂に煩わされることなく、意志は至福の充足を有することを夢想しつつ、太古の無闘争状態の懐に還帰する。それは、そのような快い仮象が現象として具体化することに向かわない限りにおいてのみ可能である。かかる現象がそのような平和を享受することは決してない。意志は、無身体、無重力状態を見せかける心の麻薬の陶酔状態に浸り、ついに、永劫の間、無益に望み続けていたことが成就される。それは、完全無欠の形象(Gebilde)を作り出すことであり、意志の努力欲の成就であるが、その際、その否定性(Negativität)が、和らげ、減らし、避けることを欲する以上には出ず、肯定的な至福の王国に到達することはないことを忘却している。
 そして、それをもって美的なものがその最も固有の本質の、純粋な観念性(Idealität)において認識される時、それに主観の側で対応するのは、享楽、すなわち欲求の内容を忘却しながら享受する意志の否定性という相関物である。それによってのみ、欺瞞の網が張り巡らされることができる。なぜなら、あちらには意志の最終の満足という不可能が、こちらには享楽なしの享受(genussloses Genießen)という論理的矛盾の不可思考があり、両者が意志の実在的否定性において原生起(urständen)している。意志は望むことと望まぬこと、Voluntas nolens(望まない)とNoluntas volens(望まずして望む)をひとつに兼ねている。
 そうして、どこにおいても同じ意志があり、美的なものにおいては意志の基礎的統一によって根本的分裂をごまかし、悲劇的なものにおいては自己分裂したものとして自己を認識し、喜劇的なものにおいては自己の分裂性を自己自身に対して向け、欲望されたものに、勝利を宣しつつ精神を対置する。これは直接的直観、理性的反省、その2つの前段階を和解はさせないものの、矛盾に満ちた統一に結合する形而上学的思弁という3段階に対応している。
 そうして、美学的なものの全ての形式をある神秘的なものが貫き統べている。なぜなら、中間の領域(訳者注:理性的反省)さえもが、純粋な因果的認識を目指す悟性的なものが、力と正当性において同等でありつつ相互に矛盾する諸要素が論理的に相容れないことにおいて挫折することを目の当たりにするからである。悲劇は、純粋な合理主義(Rationalismus)にとって謎であり続け、同様にユーモアは愚かさ、美的なものは本質なき空想であり続ける。想像的でありつつ同時に本質的であるものという撞着語法(Oxymoron)に打ち克つのは実在的弁証法のみであり、その中から実在的力としての美学的印象を理解することを教える。実在的力はその陰影の多さにかかわらず、純粋な無的なもの、空疎な妄想以上のものである。
 我々が力学的・崇高なもの(das dynamisch Erhabene)の作用を経験的、論理的に第一の、根源的な、基礎的な美学的印象と捉えることができるなら、この印象はすでに含意的に、美学的な全二律背反を萌芽において包摂しており、潜在的に、悲観主義的・ユーモア的否定性におけるその二律背反の最終、最高の自己実現を先取している。崇高なものの感情は、個人を脅かすものの光景における愉悦であり、その強度、知性的射程に従ったユーモア的なものへの関係は、ショーペンハウアーの倫理学における自殺の、静寂主義の禁欲的自己否定に対する関係と同様である。楽観主義的妄想に至る幸福主義的仮象の長き道のりの全行程を経た者のみが、世界否定の喜びを感じることができる。ユーモリストとして世界の内的な無価値を考察の本来的対象にしようとする能力、意欲、用意がある者は、美的なものの優美な偽りであるマーヤの全ての網の中で最も誘惑的なものを、永遠に自己分裂したものの見せかけの和解の全き瞬間性において透見していなければならない。
 あらかじめ愛の歓喜を深く味わっていない者は、頭脳と心の婚姻によって、白髪となった世界からこの「少年御者」(訳者注:ゲーテ『ファウスト』第二部に登場)が生まれるのを見る資格が得られない。そのように資格がないことは、老人じみて、誰にも真実に体験されなかった経験によって鍛えられた高慢さを、悲劇と喜劇に対して無感動にするものである。利己主義の偏りに取り囲まれ、そのような高慢さは悲劇的対立に対する苦痛の感受性も、美的なものに刺激を受けることもなく、ユーモア性においても意地悪い嘲笑の真似事ができるのみである。ラザロやジャン・パウルのようにユーモアの本質に深く通じた者は、ユーモアが、愛の瓦礫にほぐされた心情という土壌においてのみ真に花開くものだということを認識せざるを得ない。

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