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あの日から9年

2011年3月11日(金)14時46分に東日本大震災が発生しました。

当時、私は岩手県に住む高校2年生で3年生へとなろうとしていた春。橋を渡ると隣町は陸前高田市という場所。

あの日は午前中に春期講習をして、現代社会が最後だったかな。グラウンドは水たまりだらけ、ぬかるんでいて、まずはスポンジで水とりしたり、土を入れたりを部員総出で、かなり相当時間をかけて整備した。

練習開始。キャッチボールは毎回相手を変える。その日たまたま珍しい後輩と組んだなぁ。一通り終えて、キャプテンの掛け声で集合。監督も来ていないので、ガヤガヤしてた気がする。次のメニューをどうするか…その時。

キャプテン「地震だ!」「えっ?」次の瞬間、立っていられなくなった。

14時46分。これまでに経験したことのない揺れで校舎のガラスは割れ、部室棟にいた生徒の叫び声。照明の柱などもあり「これは倒れるんじゃないか」という思いと、「校庭の真ん中へ避難する」という小学生の頃から避難訓練で叩き込まれていた記憶で近づこうとする(これは、宮城県沖地震が将来99%発生するとされていた為、この日まで避難訓練の念頭はこれであった。中学3年生で経験した2008年岩手宮城内陸地震など強い揺れの度に「宮城県沖が来たか」と真っ先に浮かぶほど刷り込まれていた)しかし動くことも困難。部室棟も倒壊するのではないか?と「グラウンドに出ろ!」と他の部員と共に叫んだ。

尋常では無い揺れが襲っているのは理解するが、おさまる気配がなかった。「大体このくらい揺れたら収まるだろう」という当時17歳になるまでの感覚が通用せず。後に3つの地震が連動していたと知り納得がいく。おさまるはずの時間に更に強い揺れの波が来るという感覚で「このまま揺れが止まることは無いのではないか」と冗談ではなく本気で思った。後にグラウンドでも地割れが起こり、校舎の駐車場も地割れだらけとなっていた。

ようやく収まった。とはいえ、まだ揺れている感覚(というよりは実際に余震として揺れていた)その後、女子マネージャーが「震度7らしい」とケータイ(当時はスマホなんて主流ではなく、ガラケー)画面を見せてくれた。と、同時に大津波警報が出ていることを知る。しかし、この時は正直まだ楽観していた。なぜなら、この震災が発生する前年にも大津波警報が出ていたが(チリ中部地震による大津波警報(3m以上)。実際の到達は岩手は120cm)想定以下で、その2日前の地震でも津波はそこまでではなかったという記憶からで、今回もそこまでで収まってくれると思ってしまった。こうした予想を立ててしまった私は、後にそれこそが一番恐ろしいことなのだと痛感する。

部活は中止となり、各自が安否確認を急いだ。駐車場に生徒が集められる。その中で、ワンセグを見ていた人が「津波が来ている!」と叫んだ。そのお天気カメラが映す映像は、今までに見たことが無い、目で見てハッキリと分かる津波を捉えていた。身の毛がよだった。余震は止まらない。

なかなか連絡は取れなかった。津波の映像で沿岸部が大変なことになり始めていることは分かったので、多賀城市にいた従姉妹など、沿岸に行っていないか不安で、無事を祈るしかなかった。迎えに来た同じ地元のチームメイトのお母さんが「へろも乗りな」と声を掛けてくれて、乗せて貰って帰宅。

道中も停電で信号は消えており、地割れや倒壊している姿も見えた。自宅に着いて、ドアを開けると惨状。何もかもが崩れていて、足の踏み場が無くなっていて。「こういう時は靴のままが安全」「災害時はラジオ」という、これもまた訓練などで教えられた知識がよぎる。玄関にラジオを置いて流し始める。しばらくラジオのみが情報源に。この経験が「情報の大切さ」と「ラジオの必要性」後に大学で学びたいと思ったきっかけになる。

家の中の被害状況を確認していると父親からメール。まだこの時までは携帯基地局も無事でネットが使えていた。ツイッターで情報も収集し、友人とも情報交換。原発が大変なことになりそうだということも伝わり、場所的にもどうなるかわからないぞと覚悟を決める。

祖父母の家に行き妹と会い「すごい揺れだったな…」と。母親も食料を持って帰って来た。電気は無いので灯油ストーブをつけて、ラジオとロウソクの光を囲んで、これからどうなってしまうんだろうと話していた夜。

ラジオからは「陸前高田市は壊滅状態」という耳を疑う言葉が流れた。「壊滅状態」なんて表現は聞いたことが無い。どんな状況かもわからなかった。「高田松原が消失」という言葉も信じられなかった。

夜も余震で揺れ続けた。

2011年3月11日17時12分に9年前の私が呟いていたツイートがある。原文ままに記す。

「何とか生きてます。尋常じゃないです、道路が地割れしてたり、地獄のようだ…依然として余震が強いです。また、雪が降ってるので夜の寒さ対策が心配」

昨日のことのように鮮明に覚えている、あの時。

「このことは必ず次の世代にも伝えないといけない」

と、メモ帳に当時の出来事を記していた。

震災から9年の今日。番組で携わる機会を頂き、パーソナリティが「ラジオパーソナリティを志したのは震災の時にラジオを聴いたことがきっかけ」という想いに触れた。自分自身も、あの震災から今に繋がっている。

私も当時の記憶をnoteに記していきたいと思います。

サポートしていただき、ありがとうございます。 物凄くドキドキしてると思います。 AKB48劇場の入場順ビンゴ抽選の「本日の一巡目~」というスタッフさんの声を聞いた時くらいドキドキしてます。