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ファイティングポーズと親孝行

ファイティングポーズ。それは拒絶の構えだった。

居間でごろごろ転がりながらテレビを見る9歳の娘。からかってやろうと名前を呼びながら、抱きかかえるために手を伸ばす。

バタッと音を立てて娘は起き上がり、伸ばした僕の手をひらりとかわして距離を取った。照れ隠しがにじむにやけた顔を乱れた髪が半分隠し、握った拳をこちらに向けて、まだ小さな細い体で取るファイティングポーズ。

それは拒絶の構えだったが、成長した姿でもあった。

寂しさや動揺はほとんどなく、むしろ9歳らしく成長した娘を誇りに思うのとなぜか込み上げてくる懐かしさで、暖かい気持ちにさえなった。

悲しくならないのは自分の身にも覚えがあるからだろう。二十数年前のこと、僕は9歳で、その日は授業参観だった。後ろから授業を見ていた母がなぜか僕を抱きかかえた。ふだんから不意に抱き上げられるから、とくに不思議に思うこともなく、身を預けたのを覚えている。

母の肩越しに見えたのは同級生のお母さんたちの顔と、それぞれの表情に浮かぶいくつかの感情だった。「あまえんぼさんね」と微笑む顔、反抗しない僕の態度に驚く顔、「うらやましいわ」とすでに過ぎ去った日々を見るような顔、僕はあわてて母の腕から飛び降りた。

娘のファイティングポーズを見ても暖かい気持ちでいられたのは、彼女のにやけた表情の奥にある9歳らしい感情を、僕が今でも覚えていたからかもしれない。

そして、ファイティングポーズを向けられた今、気づけたことがある。甘えるのもひとつの親孝行なんだ。

6人兄弟の長男だからか、僕は親に迷惑や心配をかけないことが親孝行だと思っていた。あれこれ気にして頼んでもいないものを押し付けてくる母親に「それくらいは自分でできるよ」と伝えて立派であろうとしていた。

あぁ、でも違ったんだな。「ありがとう」と受け取って、身を委ねることも親孝行のひとつなんだ。

母は今、週に一度、多い時は二度のペースで僕ら家族の分までご飯を用意して食事に誘ってくれる。食事を用意する時間がなかったときは外食に連れて行ってくれる。

「言ってくれれば自分たちでどうにかするよ」と伝えたのもしょっちゅうだ。たしかにフリーランスになりたての頃は食費を抑えたかったし、料理の時間も惜しいしで「ご飯の面で助けてほしい」と頼んだこともある。でも今はそうじゃない、本当になんとかできる。外食してまで支えてほしいわけじゃない。

求めていることと若干ズレた手助けをしてくれる母、その母とどう向き合うべきか、娘のファイティングポーズが教えてくれた。甘えるのもひとつの親孝行なんだ。「ありがとう」と受け取ってもらえるだけで満たされる親心もあるんだ。

暇そうな娘は別に父親からのちょっかいを求めているわけではないと、わかっていながらも僕がちょっかいをかけるように、外食をしてまでサポートをしてほしいわけじゃないことを、母も知っていながらやっているんだろう。

娘がいつか結婚して家族を持ったら、僕はきっと食事を作ったり外食に誘うと思う。そのときは「自分でなんとかできるよ」という成長のファイティングポーズではなく、当然のように受け取ってほしいなと思う。

これを書いている間「今日はいそがしくてご飯が作れない」と母からラインが届いた。このあともし「外食にしよう」という話になるなら、ありがとうと素直に受け取ろうと思っている。

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