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LEGEND

“ひとつのドアが閉まっている時、もっとたくさんのドアが開いているんだよ。”

これはボブ・マーリーさんの名言です。

本日の“こずや”のBGMは、ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズのベストアルバム『レジェンド』です。

メジャーデビュー作の1973年の『キャッチ・ア・ファイア』から1980年の『アップライジング』までどのアルバムも名盤中の名盤ですが、今回は代表曲を集めた上で曲順も充実した完成度の高い1枚のアルバムとして成立しているベストアルバムを…。

こういうベストアルバムは意外と少ないです。

ジャマイカのソウルミュージックであるレゲエをこよなく愛して、世界に広めたミュージシャンがボブ・マーリーさんです。

“レゲエの神様”なんて呼ばれ方をされることもあります。

ボブ・マーリーさんと言えば、ルックスも服装も髪型も発言も音楽も何もかもが…まさにカリスマなわけです。

でも、たくさんの苦労をされてきた人でもあります。

だから、名言も多いです。

“どうやって生きるかなんてことは、誰も他人に教えられないよ。 それは、自分自身で見つけるものだ。”

ボブ・マーリーさんは、1945年に61歳のイギリス人の父と16歳のジャマイカ人の母との間に生まれました。

生まれてすぐに両親が離婚し、母と一緒に生活しました。

その後、父が亡くなったことで金銭面に問題が起き、極度の貧困生活になったことで、職探しも兼ねてスラム街で生活することになりました。

その頃に、白人の父とジャマイカ人の母との間に生まれたことで周囲の黒人とは異なる容姿から“ドイツ人”というアダ名をつけられ、それを嫌って靴墨で顔を黒く塗ることもあったようです。

そんな苦しい時に、ボブ・マーリーさんはバニー・ウェイラーさんやピーター・トッシュさんと出会って音楽活動を開始しました。

1959年には音楽に専念する為に14歳で学校を中退しました。

ボブ・マーリーさんは1962年にオーディションに合格してソロミュージシャンとしてデビューし、1963年からトレンチタウンに住み、親友のピーター・トッシュさんとバニー・ウェイラーさんと一緒に3人でザ・ウェイラーズを結成します。

ここでボブさんの名言を1つ…。

“後ろ向きなやり方では、とても生きてはいけないよ。
分かるかい?
前向きに進むんだ。
毎日が新しい日なんだから。”

この頃、“レゲエの父”と呼ばれるジョー・ヒッグスさんの音楽教室に通い、音楽とラスタファリ運動の教えを受けました。

ラスタファリ運動はジャマイカの労働者階級や農民を中心にして発生した宗教的思想運動であり、聖書を聖典としていますが、特定の教祖はいません。

アフリカ回帰主義を奨励し、その指向は生活様式全般…菜食主義やドレッドロックス、ガンジャを聖なるものとしています。

ここでボブさんの名言です…。

“誰もが自分が望む生き方で、自分の人生を精一杯生きていこう。”

1969年になると、ドラムのカールトン・“カーリー”・バレットさんとベースのアストン・“ファミリーマン”・バレットさんの兄弟がウェイラーズに参加します。

1973年に『キャッチ・ア・ファイア』でウェイラーズがメジャーデビューしました。

社会的な内容の歌詞と攻撃的な音…そのパンク精神は画期的で、後のU2やスティングさんのポリスなどに大きな影響を与えています(ポリスはサウンド的にも大きな影響を受けています)。

ここで、ボブさんの転機が訪れます。

1974年にエリック・クラプトンさんがカバーした「アイ・ショット・ザ・シェリフ」が全米ビルボードチャートの1位を獲得したことで、ボブ・マーリーさんの名は一気に世界に広まりました。

しかし、バニー・ウェイラーさんとピーター・トッシュさんが脱退したのもこの頃で、バンド名をボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズに改めました。

そんな大変な中で、翌年に発表したシングル「ノー・ウーマン・ノー・クライ」が世界的に大ヒットを記録し、ボブさんは“第三世界を代表するスーパースター”と呼ばれるようになりました。

1976年になると、ジャマイカの政治的緊張が頂点に達っしました。

ボブさんは平和を取り戻すキッカケを作ろうと無料のスマイル・ジャマイカ・コンサートを計画しましたが、それによって、二大政党の対立抗争に巻き込まれて狙撃されてしまいます。

胸と腕に銃弾を撃ち込まれて重傷を負ってしまいましたが、何とかその2日後の無料コンサートに出演し、その翌朝バハマに亡命しました。

1978年にジャマイカに戻り、ワンラヴ・ピース・コンサートに出演し、コンサートを見に来ていた二大政党の党首をステージ上に招いて和解の握手をさせました。

これこそ、まさに音楽が世界を動かした瞬間です。

ここでボブさんの名言をまた1つ…。

“指をさして人を非難する前に、君のその手が汚れていないか確かめてくれ。”

1980年に脳腫瘍が発見されて、様々な療法を試しても回復することなく、1981年5月11日にボブ・マーリーさんは36歳で亡くなられました。

ここでドラマーのカールトン・“カーリー”・バレットさんのお話です。

カーリーさんは、ウィンストン・グレナンさんによって創作されたとされるワンドロップ(one drop)などの様々なレゲエドラムのスタイルを大衆化した人物です。

ワンドロップは、3拍目にアクセントとしてバスドラムとスネアのリムショットを打つ奏法です。

ワンドロップには元々、1つ1つの音に愛を込めて叩く…という意味があります。

聴いているだけで心地よくなるレゲエ音楽の音色は、彼らの文化や生き方そのものを表しているような雰囲気です。

ゆったりとしたリズムで1つ1つの音をしっかりと奏でるカーリーさんのドラムスタイルは世界中のドラマーに影響を与えました。

また、カーリーさんのカン高くチューニングされた乾いたサウンドでゆったりしたスローテンポのレゲエスタイルのドラムと、お兄さんのファミリーマンさんのベースによるリズムセクションのスタイルは、その後に世界各地に広まったレゲエの基本になり、ジャンルを超えて多くのミュージシャンに影響を与えて、今も受け継がれています。

カーリーさんの最期は1987年、自宅の前で元妻の愛人に射殺されるという忌まわしい事件になってしまいました…。

カーリーさんも36歳で亡くなられました。

ここでまたボブさんの名言です。

“自分の生きる人生を愛せ。
自分の愛する人生を生きろ。”

ボブ・マーリーさんは今でも、単なるシンガーや作曲家としてではなく、夢の実現や希望の象徴として世界中で認知されています。

最後はボブさんの名言で締め括ります。

“もう、言葉は充分だろ。
今すぐ、行動に移そう。”

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