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理由なき反抗

“永遠に生きるつもりで夢を抱け。今日死ぬつもりで生きろ。”

これはジェームズ・ディーンさんのお言葉です。

ジェームズ・ディーンさんと言えば、Leeのジーンズと赤いジャケットに白いシャツ…そう思い描く方も多いのではないでしょうか。

それまで作業着としか見做されていなかったジーンズが『理由なき反抗』によって、若者のファッションとして流行し、その後定着するキッカケになりました。

他にもマーロン・ブランドさん主演の1953年の映画『乱暴者(あばれもの)』や1956年のテレビ番組『ステージ・ショー』に連続出演したエルヴィス・プレスリーさんもジーンズの普及に貢献したのですが…やはり、1番のインパクトは『理由なき反抗』となるでしょう。

私はロックが好きで、若かった頃は自分でもロックバンドに在籍してドラムをやっていたことがあります。

そんなロックに少しでも夢中になった人間にとって、“キング”と言えば、エルヴィス・プレスリーさんなのですが、そのエルヴィスさんはジェームズ・ディーンさんの熱烈な大ファンでした。

エルヴィスさんはジェームズ・ディーンさんの『理由なき反抗』でのセリフを全て暗記していたという伝説があります。

エルヴィスさんの代表作『闇に響く声』は、元々はジェームズ・ディーンさんが主演で撮影が予定されていた映画でしたが、彼の急死によって急遽エルヴィスさんが主役に抜擢されたという経緯がありました。

要するに、ジェームズ・ディーンさんの存在はロックンロールを大幅に発展させたという捉え方ができます。

1954年にビル・ヘイリー&ヒズ・コメッツの「ロック・アラウンド・ザ・クロック」が発表されて映画『暴力教室』に使われて大ヒットしたのが1955年であり、それがロックンロールの誕生とすると、ジェームズ・ディーンさんが大ブレイクしたのが同じ1955年ですから、それが連動して相乗効果になったという見方もできます。

ジェームズ・ディーンさんはデビューの半年後に自動車事故によって、24歳の若さでこの世を去った伝説的な俳優です。

僅かな活動期間でしたが、彼の存在は映画界のみならず、ロックンロールやティーンエイジャーのライフスタイルなどにも影響を与え続けてきましたし、未だにその効力は大きくなるばかりです。

今では普通ですが、今から90年以上前はまだ珍しかったのでしょう…“できちゃった結婚”で生まれたディーンさんは父に疎まれて無視され、その分、母からは大切に育てられたようですが、9歳でその母が亡くなり、その後は父親方の叔母夫婦のもとで育てられたようです。

1949年になって18歳の時に再婚した父に引き取られてカリフォルニア州サンタモニカに渡り、高校時代から演劇に興味を持ちジュニア・カレッジ演劇科に入学します。

1950年、19歳の時に父の勧めでカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)の法学部に進みましたが、演技に対する執着から演劇科へ移行します。

いくつかテレビ出演したり『マクベス』の舞台が評価されてエージェントがつき、ペプシコーラのCMに出演します。

そこから映画出演を強く希望し、エキストラとして活動を始め、1951年に20歳で『折れた銃剣』で銀幕デビューし、1952年に『底抜け艦隊』、1953年の『勝負に賭ける男』などに出演しましたが、全て端役でクレジットには名前すら出してもらえない状況でした。

苦渋の決断でニューヨークへ移ると、ブロードウェイの舞台のチャンスを得ることになり、同時にアクターズ・スタジオにも入学します。

同期にはポール・ニューマンさんやマーロン・ブランドさんがいました。

転機は1954年、23歳の時にブロードウェイの『背徳者』で若きアラビア人で同性愛者の役を演じて高い評価を受けたことです。

ディーンさんは様々な賞の新人賞に輝き、売れっ子脚本家だったポール・オズボーンさんは新作『エデンの東』の主役にディーンさんを推薦しました。

そして、監督のエリア・カザンさんもその実力を認めて大抜擢しました。

1955年に映画『エデンの東』が完成し、父親の愛に飢えて苦しむ繊細な息子を魅力的に演じ切っていました。

キャル役は観客に大きなインパクトを与えて、アカデミー最優秀主演男優賞にノミネートされ、 初出演の長編でアカデミー賞にノミネートされたのはディーンさんを含めて5人しかいない大記録です。

後に、エリア・カザン監督は…、

“ジミーは私の演出でキャルを演じたのではなく、ジミー自身がキャルそのものだった”

…と語っています。

ニコラス・レイ監督は『エデンの東』を撮影中のディーンさんの演技に感動し、彼を主役にした映画を撮る為に『理由なき反抗』の原案を自ら執筆しました。

この作品でもディーンさんは等身大の苦悩するティーンエイジャーを演じ切り、1950年代の若者たちの象徴になりました。

それがロックンロールの誕生と進化に連動していきます。

更に、1956年に公開された大作『ジャイアンツ』では、準主役で成り上がりのひねくれ者のジェット役を演じ切りました。

先入観なしでこの演技を見たとして、デビューしたばかりの俳優が演じてるとは誰も思わないでしょう。

ディーンさんは『ジャイアンツ』でもアカデミー賞助演男優賞にノミネートされ、 『エデンの東』と『ジャイアンツ』で、没後に2年連続でノミネートされたのは、ハリウッドの歴史上ディーンさんただ1人です。

『ジャイアンツ』の撮影終了から1週間後の1955年9月30日、ディーンさんは亡くなりました。

『理由なき反抗』は死の約1か月後に公開され、遺作『ジャイアンツ』はその約1年後の1956年10月に公開されました。

結果的には、ディーンさんが生きている間にその名を世間一般に知らしめたのは、『エデンの東』の演技を通してのみでした。

まぁ、ディーンさんにとっては賞とか人気者になるみたいな…そういったものは関係なかったのではないかと想像できます。

ディーンさんの言葉に…、

“満足感は結果にではなく、過程にこそある。”

…があります。

ディーンさんは高校時代に出会った書物『星の王子さま』に影響を受けたとのことです。

特にその中の1節…、

“心で見なければ物事はよく見えないってこと。大切なことは目に見えないんだよ”

という言葉が、ディーンさんの人生を突き動かしていたとのことです。

俳優としては、模範的な演技の中で台本に囚われないアドリブ(メソッド演技法)を多用したことで知られ、『エデンの東』では不仲の父親役を演じるレイモンド・マッセイさんにわざと嫌われるように、撮影期間中は、ろくに挨拶しないで横柄に振る舞い、マッセイさんを本気で怒らせたようです。

時に周りのことを気にもかけないようなディーンさんの演技に対するストイックな姿勢から、他の役者仲間から異端児と呼ばれるようになりました。

ディーンさんは特に『理由なき反抗』の演技で1950年代の若者の鬱屈や反抗を見事に表現しました。

このことから、同時代の多くの若者が彼をモデルにしました。

芸歴は僅か4年間、主演俳優になって半年足らずという短いキャリアと突然の死が、ディーンさんを時代を超えた青春の象徴にして神格化させました。

そして今日の本題である『理由亡き反抗(Rebel Without a Cause)』…1955年の名作であり、いち早く同性愛を描いた作品としても有名です。

若者を主体にした作品で、新しい時代の幕開け…ロックロールの時代の先駆けにもなりました。

ストーリーとしては、17歳のジム(ジェームズ・ディーンさん)はロサンゼルスに引っ越してきた日の深夜、喧嘩をして警察署に連れて行かれ、そこで、子犬を拳銃で撃ち殺した少年プラトー(サル・ミネオさん)と1人で街を出歩いていて補導された少女ジュディ(ナタリー・ウッドさん)と知り合います。
2人はジムの転校先の高校の生徒でした。

孤独なジムは、やり場のない想いを警察官に打ち明けます。

翌朝になって初登校したジムは不遜な態度から、不良グループのリーダーであるバズから目をつけられて、ナイフでのバトルを強要されす。

ジムの方が少し優位のようにも見えましたが、2人は決着をチキンレースでつけることにします。

チキンレースはチキンゲームのことで、別々の車に乗った2人のプレイヤーが互いの車に向かって一直線に走行するゲームです。

日本ではチキンレースと呼ばれています。

激突を避ける為に先にハンドルを切ったプレイヤーはチキン(臆病者)と称され、屈辱を味わう結果になります。

チキンゲームという言葉は、ある交渉で2人の当事者が共に強硬な態度をとり続けると悲劇的な結末を迎えることが目に見えているのに、プライドが邪魔をして双方共に譲歩できない状況の比喩として使われる場合もあります。

『理由なき反抗』では、2人のプレイヤーは崖に向かって別々の車で同時に走り出し、先に運転席から飛び出した者がチキンとされます。

その他にもルールがあり、ゴールラインをどれだけ早く通過するかです。

ゴールラインの先には崖があるので、あまり早く通過すると止まれないのでそこが肝心です。

設定されたゴールラインを超えたり、崖から落ちたら負けになります。

そして、先にブレーキを踏んだ方が負けで、恐怖に対する我慢比べという趣向もあります。

競技者が失神したら負けになります。

そして、競技者が死んでも負けです。

結局、レースでバズは崖から車ごと転落して死んでしまいます。

罪の意識から警察で事情を話そうとしたジムは両親から反対されてしまいます。

ジムは家を飛び出し、やはり家出していたジュディとプラトーの手引きで空き家に身を潜めますが、そこでまた新たな問題が起き、最後はグリフィス天文台で…という展開です。

1955年10月に『理由なき反抗』は公開されて、新しい時代の幕開けとなりました。

それまで少なくても映画では、無邪気な子どもはある年齢を境にいきなり大人になるものとされていました。

しかし、『理由なき反抗』ではその間に、自分が何者なのか悩み、苦しむ“若者”の時代が存在することが明かされました。

『理由なき反抗』の2年前には、革ジャンに身を包んだバイカー集団を描いた『乱暴者(あばれもの)』がありましたが、主演のマーロン・ブランドさんは既にアラサーのスター俳優でした。

若者というよりは成熟した兄貴分としての魅力を漂わせていました。

それに比べて、ディーンさんは“若者”そのものでした。

当時24歳の彼は、この年の3月に公開された『エデンの東』でいきなり主演に大抜擢された新人俳優です。

身長が170センチ前後と、アメリカ人としては小柄なのに猫背で更に小柄に見せ、リーゼント、ジーンズ、赤いジャケットの着こなしも完璧です。

それも映画公開前にディーンさんは自動車事故で亡くなっていたので、その若さは永遠に続くことが保証されていました。

その死因もあって、ディーンさんが劇中で挑む危険なチキンレースの描写は、当時の若い観客たちに衝撃を与えました。

事件が立て続けに起きる本作ですが、作品内で描かれているのは、実はオープニングの深夜の警察でのシーンからラストのグリフィス天文台での悲劇的な結末まで、僅か24時間の話です。

キーパーソンはジムではなく、サル・ミネオさん演じるプラトーです。

彼は知り合ったばかりのジムに熱心に世話を焼きながら、彼とジュディが惹かれ合っていることを知ると一転、狂ったように奇行に走ります。

プラトーのジムへの恋心…劇中でパニックを起こしたプラトーに対して、心配したジムが“寒いか”と言いながら自分のジャケットを脱いで手渡すと、彼はその匂いを嗅いで抱きしめるような行動を取ります。

1955年としてはかなり思い切った描写です。

ニコラス・レイ監督はバイセクシャルで、サル・ミネオさんもバイセクシャルだと言われていました。

そして、ジェームズ・ディーンさんも、現在ではそうした傾向を持っていたという説もあります。

この時代を遥かに先駆けしたシーンは、この3人だったからこそ大胆に描けたのかもしれません。

ニコラス・レイ監督はその後、アルコール依存症に伴う奇行でハリウッドを追われて1963年に病気で商業映画の監督を事実上引退しました。

サル・ミネオさんは1976年に37歳で暴漢に刺殺されてしまいました。

そして、ディーンさんも『理由なき反抗』の公開前に自動車事故で亡くなりました。

ディーンさんが生前に趣味のレースについて“危険ではないか?”と記者に聞かれた際には“車に乗っていて危険を感じるのはレース場ではなく、一般の車道だ”と答えています。

“永遠に生きるつもりで夢を抱け。今日死ぬつもりで生きろ。”

俳優として人気絶頂期に、24歳という若さでこの世を去ったディーンさんの言葉なので、より一層重みを感じます。

永遠に生きるつもりで夢を思い描き、可能性に限界がないような勢いでその夢を追い求めて、後悔しないような生き方で今日をしっかり生き抜く…何歳になってもそうありたいと思います。

ジェームズ・ディーンさんは永遠のヒーローです…あぁ~ステキ♪

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