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【小説】濡翼のヴィジリア【第八話】

 レンガ造りの総督府にはまだ聖ゲオルギウスのイコンが飾ってあった。
 スラヴァからひと月も経つのに、片付けていないらしい。クリスチャンだらけのここでは、おそらく次の聖ヴァイタスの日になるまで誰も気付かないのだろう。
 二階の廊下を通るとき、鉄道局員が執政室から出てきた。目の下に深い隈のある男で、ウィルドを見ると軽く帽子に手を添えてくる。

「また線路でも爆破されたのかね」
 声をかけると驚いた様子で、鉄道局員はへへっと笑った。
「いえ。ダイヤの修正で意見を仰ぐことになりまして」
 彼のポケットの中で何かがクシャリと音を立てた。
「運輸省の窓口が同じフロアにあるのに?」
「帝国さんの事情はこっちじゃないと聞けませんのでね」
「そういうものか。お疲れさま」

 すたすたと去って行く局員の足は、軍人さながらに規則正しい歩幅を刻んでいた。訓練されていない人間では、ああいった風にはならない。

 執政室ではクレイヴン伯爵が気つけのブランデーを取り出しているところだった。入ってきたウィルドを見て瓶を軽く上げる。首を振り返されると、「つまらん野郎だな」と呟いてショットグラスをあおった。

「伯爵どのが鉄道に明るいとは存じ上げませんでした」
 来客用のソファは、地球の底まで沈むかと思うくらい柔らかかった。ひじ掛けで身体を支えるウィルドを見やりつつ、伯爵も向かいに座ってくる。
「ん……ああ。レオンか。あいつ、何て?」
「ダイヤグラムの調整に伺った、と」
 クレイヴンはプッと唇についたブランデーを吹き飛ばした。
「バカなやつだよ。業務と関係ない部分はどこまでも適当にやりやがる」
「どこかの将校と見ましたが」
「ああ」
 ショットグラスにもう一杯注ぎ、クレイヴンは赤くなった指を揉む。

「ここの諜報員だ。田舎ことば、、、、、が上手いからな、揚羽同盟に潜ってもらってる」
「ハンガリー人がスパイですか」
「真面目で目立たない男にはぴったりの任務だ。給金もいいから裏切る心配もない」

 そこまで言うと、クレイヴンはウィルドのぼろぼろになったコートを見て、小さく鼻を鳴らした。
「……どうもカラスどのは苦戦していらっしゃるようだが」
「黒い羽の妖精の件です」
 報告書を手渡して、ウィルドはソファの背もたれに沈んだ。

 浅黒い肌に、育ちの良さを感じる所作。あの妖精には悪目立ちする要素ばかりだ。
 しかし尋ねたところで新市街では情報を得られなかった。
 通訳を申し出た女すらとんだズブで、誤訳を連発した挙句、最後はプラハとまずいプローハを言い間違えてウィルドが殴られる羽目になった。

「どこかに匿われているのは間違いありません。ただ、何が目的か分からない」
「被害者は移民。社会的なステータスは無し。殺される理由は無いが、生かしている理由もない。『こいつ死なねえかな』と思ったら簡単にひねり潰せる」
 ええ、とウィルドはうなずく。
「誰もが思い、押し殺している感情です。ゆえに犯人像を絞り切れない」
「違いない。煽る野郎まで現れている始末だ」

 クレイヴンの目が横を向く。
 壁のコルクボードに新聞記事が刺してあった。いつか見た”ピエモンテ”の記事だ。カラス揚羽の紋章が大きく羽を広げている。
「政治は公邸で行われ、言説はカフェで作られる」
 クレイヴンの指がショットグラスの側面をなぞる。
「列強の迫る今、この国を動かしているのは馬鹿デカい被害者意識だ。国民は政府によって抑圧され、移民によって傷つけられ、周辺諸国によって奪われている――」
「そう見ることもできますな」
「見るだけじゃない。誰もが『こいつ死なねえかな』と思い始めている」

 クレイヴンは執務机の引き出しを開けた。
 中に積まれた封筒を取り出して、一枚ずつデスクに並べる。

「トルコ、ハンガリー、クロアチアにボスニア……」
 サインの言語も厚みもバラバラの封筒をたたきつけるようにめくりながら、クレイヴンはウィルドを見た。
「ここ二年で総督府が止めたテロ事件だ。軍人くずれだけじゃないぞ。学生、百姓、主婦……干からびたジジイが毒を盛ろうとしたケースまである」
 ウィルドは差し出された一枚を読んだ。
 農村生まれの青年がドイツからライフルを密輸入していた。巡察中のボスニア公使を殺すための武器だったらしい。警官隊に踏み込まれたときに自殺した、と報告されている。

「大きな悲劇がそのうち起きる」
 クレイヴンは静かに言った。
「それをきっかけに誰もが銃を手に取り、自分や隣人を守るために立ち上がる。そして、この国はひとつになる。きっと全世界を焼き払いながら……」
 封筒に押されてショットグラスが転がった。
 ブランデーが封筒を濡らし、”ハンガリー”の文字が紫色ににじんでいくのを、ふたりは無言で見つめるしかなかった。


 屋台で買った炭酸水の瓶は半分ほどに減っていた。
 気の抜けたそいつをひと息に飲み干して、床に立てる。脚を動かしたとき、破り捨てた反故紙の山がカサカサと音を立てた。

 たったひとりの殺人妖精によって書類が山を作る。
 それとて全体からすれば一部に過ぎない。今日もどこかで誰かが死んでいるはずだ。それでも、大きな悲劇は小さな死を圧し潰してしまう。

 かつて劇場で殺された大統領がいた。
 そいつの死はひどく悼まれた。ぶどう弾と鎖弾、無数のダムダム弾でバラバラにされた60万の男たちよりも、ずっと。
 あのとき戦争は終わったのだ、と悟った。
 機能停止した肉塊がひとつ劇場に転がることが、戦場に重なる兵士たちのむくろよりもニュースになる時代になったのだ、と。

 机上の資料にはアリッサの丸っこい文字で通し番号が振ってあった。今のシートは"26"で、終わりの一枚は"89"だった。
 夜が長くなりそうだったのでアリッサには帰らせた。揺れる影法師と一緒に作業をしながら、手書きのペーパーに載っている文字を目で追う。

  1. 男、30代。頸部からの失血死。

  2. 女、20代。ショックによる心停止。

  3. 女、20代。気道の損傷による窒息。

 舞台の見取り図には番号の付いた印が付けられていた。

 死者は十人を超えたら書類上の数字になることは、アメリカで知った。
 検屍解剖の結果では、すべて凶器は同じ剣だった。片刃の直剣。真っ直ぐ刺して、それ以上肉を傷つけることなく抜いている。
 今回も死体を壊さないように慎重にやっていた。
 あれだけの死体の山を全員分だ。殺す相手の選び方と比べたら、偏執的とすら言える。

「違う。逆だ」
 殺す相手は無造作なのに、なぜ刺し方だけこだわり続けるのか、と考えるべきだ。

 しばらくして廊下の方から足音が聞こえた。
 ドアの前で立ち止まり、ノックと共に「失礼します」と短い声がかかる。

 どうぞと返すと、ブーツがドアを押し開けて、眼帯を着けた妖精が入ってきた。今日もカンテラを持参していて、ぼんやりとした光が顔に赤い影を作っていた。
「レナータ君……」
「警察から連絡が来ました」
 レナータはカンテラを置くと、手袋の紐を結び直した。

「妖精を保護したので法院に記録を取ってくれ、と。劇場の生き残りです」

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