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【小説】濡翼のヴィジリア【第七話】

 玄関に放られた朝刊には、一面に劇場の事件が載っていた。
 拾い上げてぱらぱらとめくる。
 急いで作った記事らしく版画は無かった。読み進めて、死んでいた支配人の名前がアレクサンダルというのを初めて知った。ただし犯人は筋骨隆々の男になっており、「法院のベテラン審問官」が事件現場で負傷したらしいと書いてある。

「それ、終わったら貰っていいかい?」
 ウィルドがドアを閉めようとすると、毛むくじゃらの手が差し込まれた。戸板の隙間からよれよれになった防衛団の制帽が見え隠れしている。

「構わんが、読めるのかね」
「駅で売るんだ。急いでる旦那なら三ディナールはふんだくれる」
 ウィルドは手元の新聞を少し開いた。それから裏の訃報欄だけチェックすると、丸めて少年に渡してやった。

「また死んだって聞いた」
 黄色い目が制帽の下から覗いて、まばたきをする。
「国王サマのときみたいにダイナマイトかい? みんなイスラームの連中がやったって言ってるけど、絵の犯人はヒゲが生えてないし、腹も出てないから違うよな――」
「……正しい情報が知りたいなら文字を勉強した方がいい」
 ウィルドはかぶりを振って、ドアを閉じた。

 しばらく呼吸を整える時間を置いて、今のは違うなと思った。
「正しい情報を疑うなら文字を勉強しろ」と言うべきだった。
 ムスリム、イカれた市民、妖精。法院の仙鳥。
 報道に求められるのは市民が納得できる筋書きであって、必ずしも真実ではない。それでも疑いたければ調べ続け、安心したくなったところで信じればいい。

 ――私は疲れているのかもしれない。
 眉間をほぐしつつソファに腰かけ、戸棚からタバコを取り出す。
 喫い方は幸いにも覚えていた。塩辛い煙で肺を半分ほど満たしながら、劇場で見た黒い妖精を思い出す。オリーヴ色で生気のない虹彩、淡いコーヒーの肌。背丈は女にしては高く、男としては低い。
 気が付けば指先がちりちりと焼けていた。
 ぱっとタバコを離すと、灰になった羽根が一緒に落ちていった。しばらく、床の上でわずかに灯る熾火を眺めていたが、すぐに飽きて踏み消してやった。

 そのときドアノッカーが叩き鳴らされた。
 指をこすり合わせながらドアを開けると、セロリの詰まった紙袋が目の前に突き出された。
「近くに立ち寄ったもので」
 アリッサがヒゲをしごいて言う。ウィルドがのろのろと受け取ると、彼女もずかずかと部屋に入ってきた。
「野菜庫は?」
「ああ。たしか空きがあったはず……」
「良かった。少し食事に付き合ってください」
 アリッサはシャツの袖をまくって、外れかかったボタンをはじいた。
「誰かと会ったのか」
「大学の方と少々。イライラしてるの、バレちゃいました?」
「いい服だ」
 アリッサはきょとんとした顔で下を向く。そして自分のスーツ姿にくすくす笑うと、襟を手早く開いた。
「帰ったら捨てます。夏にズボンなんて暑くて履けたものじゃない」

 夕暮れになると旧市街はかつての輝きを取り戻す。
 紺色の闇にドナウ川がせせらぎ、遠くの橋の欄干にはぽつぽつとガス灯の黄色い火が並び立つ。休日ともなると宴会用の屋形船も多く、スタインジョッキを打ち合わせる音が路上まで聞こえていた。

 隣から口笛の音が響く。シュトラウスだ。サロメ、だったか。
 ウィルドが目を向けると口笛の音は止まり、アリッサの丸い目が見つめ返してくる。
「不良みたいなことをする、と思われました?」
「いや……。兵士は口笛を吹くのが普通だった」
 くちばしを交差させ、完璧なベー音を鳴らしてみせる。アリッサはにやりと笑った。
「新大陸では役者をなさっていたとか」
「もどきだよ」ウィルドは帽子を深くかぶり直し、「おもちゃの剣で『ハムレット』を演じていたのに、いつの間にか本物の銃剣を握らされていた」
「ということはゲティスバーグも……」
「人民のための政治だったらリッチモンドでもやっていたさ」
 ウィルドは胸ポケットに手を入れ、タバコをつまむ。
「ワシントン側が言う正義には奴隷の解放が含まれていたが、綿花農家と彼らの財産は含まなかった。どちらを重んじたか、というだけの話だった」

 目的の店は川沿いで小さなランプを掲げていた。
『身体の慰みに料理と飲み物が要るように、疲れた精神と飢えた心こそが我々の客である』
 レリーフにドイツ語で書かれた格言はクルップ社の教育協会のものだ。
 重たいクリ材のドアを開くと、セイウチそっくりの皇帝ヒゲシュナウツバルトを生やした親父が出迎えてくれた。

「いらっしゃい、カラスどの。今日はお嬢さんも一緒か」
 ドイツらしい規格化されたテーブル、椅子、カウンター。この店はいつ来ても何一つ変わらない。
 ウィルドがカウンターに歩み寄るなり、ショットグラスのシュナップスが差し出された。
「常連への差し入れだ、飲みな。辛気臭い顔してるぞ」
 店主はやっぱりビスマルク宰相みたいに低い声で言った。

「事件の調査をしてきた。新聞を読まないのか?」
「客に聞けば無料タダだ。あんたこそ、あんなのにカネを払うのか?」
「その客とやらはたぶん金を払ってるんだがね……」
 度数の高いシュナップスは、確かに景気づけにはうってつけだった。カッと熱くなった喉をさすりながら、ウィルドはカウンターにチップを滑らせた。

 隣に座ったアリッサにビールを頼んでやっていると、店の奥からケーゲルのピンをはじき飛ばす音が聞こえてきた。
 すでに室内には汗のにおいが充満していた。中央の机には手垢で真っ黒になった重いボールが並び、次の番になった妖精が自分のボールをワックスで磨いている。壁の点数表を見ると、手番が五巡したところのようだ。奥で従業員の女性が九本のピンを三角形に並べていた。
「こっちでも流行ってるんですか?」
 アリッサがジョッキを下ろし、ヒゲに付いた泡をぬぐう。「てっきりビリヤードとバックギャモンばっかりかと」
「きみは投げないのかね」
「さっき小銭を切らしてしまいました」
 と言って、アリッサは横目でブタの置物を見る。

 ボールを投げる前に願掛けにコインを立てるのだが、みんな酔っぱらっているものだからディナール硬貨はすべて床に落ちていた。
「ちょっとくらいバレないだろうに」
「気分の問題なんですよ。これでも品行方正で通っているんですぅ」
 ウィルドは少し考えて、財布から六枚ほどコインを出した。
「こいつでドイツ娘の投げ方を見せてやれ」
「そういう気風きっぷのいいところ、わたくし大好きですよ」
 アリッサは立ち上がって自分のケーゲル・ボールを取りに行った。ちょうどさっきの妖精が投げるところらしく、野次馬たちから掛け声が上がった。

 ケーゲルのレーンからちょっぴり離れたところで、ウィルドはシュナップスのグラスを呷った。店主を呼んでチェイサーのビールを注文し、紙幣を添える。
「一番デカいジョッキで頼む。ここのは薄くて酔える気がしない」
「そりゃ酔うためにビールを選ぶ馬鹿はいないからな」
 店主は樽から注ぐと、ウィルドの前にたたきつけた。
 飛んできた泡をぬぐいつつ、ウィルドは店主をじっと見つめた。彼も面倒くさそうにウィルドを見やると、水垢まみれになった布巾を差し出した。

「で、今もやってるのか、その……地下で資料をまとめるやつ」
「何でもやっている。現場も後方も、判事の真似ごとだって」
「手広くやると損も多いだろうに」
「ああ」
 ウィルドは羽毛に埋もれた指を曲げた。わずかにかぎ爪が飛び出し、ジョッキの水滴をぬぐい去って行く。

「今回は弾の届く距離で逃した。あってはならんことだ」
 そこまで言って、店主の顔に気付く。自分の頬に手を当てると、凄まじい形相になっていると分かった。そっと笑みを取り繕い、かぶりを振る。
「酒は人を素直にする。ゆえに酔うことは素晴らしい。そうは思わないか」
「しかし今のあんたは飲みすぎだ。水を取ってくる」
 店主が立ち去ったとき、背後でボールを持ったアリッサが通り過ぎた。

「グート・ホルツ!」
 観客たちから掛け声が上がり、誰かがボールを転がす。かこん、と高い音がしてピンが吹き飛んだ。従業員が笑顔でスコアボードに記入しに向かう。

 あの黒い妖精は大量虐殺を行った。わざわざ目立つ銃まで撃たせて。
 これは挑戦状なのだろう。
 次は無い。出会ったら始末する。

 ウィルドはくちばしに付いたビールを指でぬぐった。
 かこん、とまた遠くでピンが倒れる音がした。


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