ちょっと違った妖怪の見方。 河童。
読んでくださる方々、本当に有難うございます。スキ、フォローとても、嬉しいです。
皆様のように、上手に文章が書けるように、努力をしていきます。
今回は、妖怪のお話をさせて頂きます。
過去に、三人、「河童のお話」をしてくださった方々がいらっしゃいます。
三人ともに、九州地方でのお話でした。河童伝説は、九州方面に多いようですね。
お三方の共通点は、見た河童が、所謂、「お皿の河童」の姿をしていなかったことです。別の怪異であった可能性もあるわけです。
見た場所が、全員、「河童伝説」に関連のある九州地方のとある場所だったので、「河童」と表現されているのだと思います。
妖怪は、民俗学として、捉えてみても、面白いものです。
スピリチュアルや、オカルトは、単に「不思議」とか「ご利益」的なものではなく、教科書では知れなかった、出来事、民衆の歴史を垣間見ることができるものだと思います。
日本の神道や妖怪は、そういった意味で、とても分かりやすいものです。
神道は、神職であられた、葉室賴昭様のご本が、とてもためになり、勉強になります。また、後日、機会があれば、神道の学術的な方向でのお話をさせて頂きたいと思います。
妖怪のお話は、民俗学の、柳田國男先生や、網野善彦先生、最近の方では、小説家の京極夏彦先生のやり方、見解が面白いのではないでしょうか。
妖怪は、「ゲゲゲの鬼太郎」的な、(鬼太郎は妖怪ではありません。幽霊族です笑)単に面白いという面もありますが、その謂れを追及すると、知らなっ方日本の側面が出てまいります。
河童は、諸説ありますが、私は、網野先生のお話が、面白いと思っています。
その昔、中世の日本では、移動手段が、牛車や馬でした。駕籠や、人力車はもっと、あとの時代です。余談ですが、駕籠かきの駕籠が流行った背景には、政治的な意味合いが強くあります。徳川家のインフラ整備の方針に関係しているのですね。
さて、馬や牛が乗り物として、多く、使われれば、当然、死んでしまうことがあります。
では、亡くなってしまった馬や牛は、どうしたのでしょうか?
これは、川、水辺に住んでいた職人が、回収することになります。
河原者(かわらもの)と呼ばれていたそうです。
彼らは、俗世と離れた生活をおくっていましたので、童のような姿をしていたといいます。髪型がおかっぱだったのです。河童です。
妖怪に、~童子、~童が多いのは、俗世と絡んでいなかったからですね。
似たものに、~入道や、~小僧、~坊主 のように、僧籍に入っていたものが、多いのも、俗世との区別でしょう。
この河原者は、何を職業にしていたかといえば、馬や牛の解体です。
これらを、肉と皮に分け、革細工をしたり、食べたりしていたと思われます。
「河童は尻こだまを抜く」というのは、ここから来たのでしょう。
解体において、内蔵を抜きますから。
この河原者、中世が終わり、徳川家の世になっても、技術者として残りますが、中世からの流れで、「ケガレ 」を扱うものとしての扱いになってしまいます。
身分制度の士農工商が施行されると、このカーストの下、更に下という立場で存在するようになるのですね。
当時は、死を「穢れ、ケガレ」と捉える側面があったため、技術者ではありますが、「ケガレ」を扱い、万人には出来ない特殊技能を持っているために、存在自体が「特殊」なものになっていったと思われます。
ざっくりですが、これが、妖怪「河童」の出自だという説があります。面白いですよね。
他の妖怪も、このように紹介されているものたちがいますが、長くなるので割愛します。
しかし、これが出自であったとしても、ここが、人間の不思議。
人間が長く想い続けった結果に、河童、妖怪たちは存在している以上、きっと、具現化はあるのでしょう。
「想像力」は、「創造力」です。
追伸
この河童の下りは、夕べ、したためているものなのですが、四歳になる娘が、唐突に「ねえ、父さん、河童、知ってる?」と聞いてきました。
「えっ?どうしてですか?」と聞くと、手に夕飯のキュウリを持って、「河童が、食べるんでしょう?」と言ってきました。
おかっぱ、河童。尻子玉、内臓を抜く。河辺に住んでいた。
「きゅうり」って、河辺にで育ちますか?笑
長々とすいません。ここまで、読んでくださった方々に心から、感謝いたします。
有難うございます。
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