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僕のエリ 200歳の少女

僕のエリ 200歳の少女 2008年 スウェーデン

物書きをするには、書くために見るか、見てから書くかの二つの選択しかないと思う。
筆者の場合は前者だが、書くという行為を前提にしなければ、この映画の場合は、決して自分には、巡り合わなかった映画だと思う。
インドに天の導き[必要な段階になった時に師は目の前に表れる]と言うことわざがある。
そして必要な時に、必要な映画が現れた。

カンタンなあらすじは、内気で友達のいない、いじめられっ子の12歳の少年オスカーが隣りに引っ越してきた、不思議かつ不気味な少女エリに恋をする。しかしエリの正体は人間の血を吸いながら町から町へと移り住み200年も生きながらえてきたバンパイアだった。

TSUTAYAの恋愛コーナーに誰も借りてが付かずに置かれていた作品。ホラーと恋愛の融合はいかにと考えた。
何も考えなければ、小学生の子供と姿は子供・歳は200歳のバンパイアの「小さな恋の物語」と勝手に思い込みそうなタイトル。
あるいは、12歳の少女がいきなりシワまみれの婆さんに変身するのでは、と頭に不安が過ぎった。

あくまで個人的な解釈だが、日本のバンドに奇形児と言うバンドがいるが、そのバンドの「孤独のワルツ」という曲のメロディーが自分的にこの映画にピタリとはまったので興味がある人はYouTubeで聞いてみて下さい。

で本題に入るが、全てに置いて孤独がテーマ。両親が別居しているオスカーも孤独なら、200年も12歳のバンパイア姿で生き抜いて来たエリも絶望的なまでに孤独だろう。そして映画の1コマごとに、答えを見つけなければ、映画から置いていかれる。
訳が分からない映画なのではなく、訳を1つ1つ掘り探す映画なのだ。ただ映画を眺めるのではなく、見る側が映画に参加するのだ。察するに最初エリの付き人的存在で手際の悪い血液回収人だったオッサンは、人間の屑野郎である小児性愛者で、血液を供給する見返りにエリの身体を弄んでいたんだろう。
オスカーの父親が何故妻と別居しているのか考える。DV野郎?いや違う。妻が一緒に居たがらない理由はなんだ?男か女か薬か酒か。きっと答えはこの中にある筈だ。

例えホラー括りであっても、グロに走るのではなく映画自体が孤独ながらも孤高の存在であり澄み切った美しさを感じる。
エリが血を吸った後に顔と服が血だらけになるのも、それは絶対的にこの映画に必要かつ必然的な表現であり、ここをカットしたらバンパイア映画としての、この映画自体の意味は無くなる。

弱いオスカーを焚き付けたエリには、200年生き抜いて来た人生(バンパイア)としてのプライドを感じるし、結局は強くなければ生き抜いて行けないのだ。筆者は、高校生活の1年目を思い出したが殺るか殺られるか、そんな環境に自分をおいてごらん。誰かをぶちのめせば、ぶちのめした奴らの兄にぶちのめせされる。駅のトイレで殴られ口の中が血塗れ、おまけに服がゲロまみれ。表現は違えど映画の中にそんなシーンあるでしょ?

オスカーはエリをカバンの中に入れて何処に旅立って行った。自由を求めるのでは無く、生き抜く為に、エリが生き抜いて行くには誰かを犠牲にしなければならない。オスカーは悟ったのだろうか、エリと共に生き、エリを生かす為に捨て駒になると?

#エッセイ #コラム #映画 #音楽 #青春

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