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普通じゃないけど、入社しました。 | 新井博文

はじめまして。
2021年10月から株式会社ヘラルボニーに入社しました新井 博文(あらい ひろふみ)と申します。

入社してから怒涛の日々を過ごし、気がつけば11月になっていました。

入社エントリーということで、アートも福祉もへったくれもなかった私に光を与えてくれた異彩との出会いからヘラルボニーへと続く道、そして未来への想いを書かせてもらいました。

そのためにまずは、暴走族、少年院、世界一周など、普通じゃない、と言われ続けた私の人生にお付き合いただければ幸いです。

普通になれなかった青年期

三度の飯より笑う、遊ぶ、サッカーが大好きだった私。
いかなる天気であろうとも、日が暮れるまでは家に帰らない子でした。

しかし、転機は前触れもなくやってきます。
小学4年生のある日、登校するとクラス中から無視されるイジメにあい
小学6年生の夏、音が聞こえるほどの勢いで家族が崩壊しました。

学校にも家庭にも居場所がない私は、中学2年生になり地元の暴走族グループに入りました。
気づけば、日が暮れてから昇るまでは家に帰らない子になっていました。

かつての私にとって暴走族グループは、”仲間”として受け入れてくれる可能性があった最後の砦。

いじめから、友達がいる、という”普通”になれず
家族が仲が良いという”普通”にもなれず
学校に行き授業に出るという”普通”もできなくなり
「当たり前」「みんなやってる」という大人たちの”普通”にも納得ができない。
そんな自分を受け入れてくれる最後の砦。それが暴走族でした。

大人たちから
「お前は蛾、以下。」
などと吐き捨てられるすべての言葉に反応し
爆音と暴力をエスカレートさせ、たくさんの人を傷つけていきました。

そして、17歳になる2ヶ月前に逮捕。
少年院に送られました。

普通の生活がなじめない私には、やめる、という選択はありえませんでした。
そこまで追い込まれて、追い込んでいたのだと思います。


少年院では、春夏秋冬春を過ごしました。

迎えた、出院の日。

はじめて見る扉の向こうに、格子越しじゃない春空の下
毎月3時間ほどかけ面会に来てくれた父と、
たんぽぽを摘んでいた祖母、
そして、たった1度だけ来てくれた面会で「帰ってきて!」と泣きつづけていた妹が出迎えてくれました。

これからは普通に生きよう。
18歳になった私は、社会に戻りました。

自己紹介_ヘラルボニー

(もう、時効のはず、、、)

羨ましさと劣等感

社会復帰後は、友人の紹介で地元の会社に就職しました。
社長や先輩に恵まれた職場環境でしたが、好きでもないこの仕事を続け、面白い人生を歩める未来は描けませんでした。

そして「普通に生きていく。」
そう出院の日に思ったのに、地元に戻ると、仲間と呼べる人は一つのグループにしかいなかったです。
不安定で、寝るのも苦しい日々が続きました。

そんなある日、毎晩一緒に飲み歩いていた、大親友であり大悪友が私に告げます。
「大学を目指すから、とうぶんは遊ばへんわ。」

いままでくらった、どの暴力よりも強烈な一言でした。

彼はその言葉に違わず遊ぶことはなくなり、一直線に目標大学へ。
彼は私にとって眩しすぎました。

彼の輝きは、目を背けていた私の内面を照らします。

それは、何もない、という現実。
目標や夢はもちろん、憧れる人もおらず、同じことの繰り返しの日々。
「このままじゃあかん。」
箸にも棒にもかからない、ちっぽけな思いしかありませんでした。

それでも、私はもがきます。
有名大学の合格を勝ち取った彼のようにはいかずとも、転職しよう!と動きだします。
とは言っても、まともに就職活動すらしたこともなく、また知り合いは地元にしかいませんでした。

そこで、地元にある最も大きなコンビニに向かい、そこにあるすべてのフリーペーパーを手にしました。
フリーペーパーに掲載されている仕事に人生のすべてをかけたのです。

フリーペーパーにはカタカナの仕事、スーツのイケてる男性が写真に映っている仕事、高給が売りの仕事などが掲載されていました。

しかし、魅力的な募集はすべて「高卒以上」「要資格者」
私はことごとく要件から外されていました。

失意の中、帰宅。家族に冗談まじりで転職の話をしたところ、明るく一言こう言われました。
「常識で考えて、少年院に入っていたあなたを雇ってくれる会社なんてない。いまの職場良いところなんやから、普通に働きなさい。」

常識で、
普通に働く、
なにそれ。

中卒で
元暴走族で
少年院に入っていた
一生、このラベリングで新井博文は判断されるのか。

わたし個人は社会から必要とされていないのか。
もはや、普通むり。

深い、底なしの絶望を感じました。

しかし、お先真っ暗。はい、終わり。
とは諦めきれませんでした。

細い糸をたぐりよせて

「諦めきれへん。」
いまにも消えそうな、ちっぽけな火を灯しながら、あがきます。

どうせ買うなら大きいやつ!という判断軸で、持ち運ぶメリットを失った最大最重量のノートパソコンを買ったり。

当時流行っていたmixiで「君なら絶対に成功者になれる!」とDMを送ってきた人に会いに行ったり。

夜勤の前に本屋に行き、もっとも読みやすそうな本を一冊だけ買ったり。

もがき、あがきました。
すると、微かな光が灯ります。

購入した一冊の書籍が面白かったので、自宅に鎮座したノートパソコンで著者のことを調べました。

名前を入れTopに出てきた著者HPをクリックすると、HPにこう書かれていました。

「2010年8月出航のピースボート世界一周の船旅に乗船します! 」

世界一周。
これしかないかも。。。

底なしの暗闇から、どこにつながっているかわからへん細い糸をたぐりよせるように、ピースボートを調べて、資料を取り寄せ、説明会へ。

この糸しかない私は、貯金160円の現実は脇に置いておいて、なぜか申し込んでいました。

もう、これしかない!

すぐに車を売り、社長には「世界一周に行くので辞めさせてください!」と直談判。

社長は
「ええやん!僕も若かったらそんな挑戦してみたいわ。帰ってきて仕事がなかったらおいで。」
暖かく送り出してくれました。

当初は反対していた父から、数万円と海外保険を黙ってわたされ、

説明会から5ヶ月後の2010年8月

東京の晴海客船ターミナルから、折り目ひとつないパスポートとその数万円を握りしめ、世界一周へ旅立ちました。

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世界は豊かで人はやさしかった

世界一周はもちろん、はじめての海外はカルチャーショックという言葉では表せないほど、衝撃の連続でした。

ベトナムでは、私ですら経験したことがない、おそろしい数のバイクが街を走っており
エジプトでは、憧れのピラミッドが街中にあることに驚愕し
スペインでは、未完の大聖堂サグラダ・ファミリア教会に心奪われ
ジャマイカでは、濃く深いブルーのカリブ海と本場のレゲエに酔いしれました。

私の想像のはるか上をいくほど、世界は豊かで魅力に溢れていました。

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そして、もう一つ魅了されたことがあります。
それは、一緒に船に乗っていた人たちです。

約1,000名の乗船者は、それまでの私が出会ったことがないカテゴリーの人たちばかりでした。
地域や年齢はもちろん、バックグラウンドも個性も多彩な乗船者ばかり。
その魅力に引きつられ、夜な夜なお酒を飲みながら語り明かし、一緒に国を巡り、私もバックグラウンドをオープンに話していました。

普通じゃない、を受け入れてもらえた。

心からそう確信できたこの世界一周は、私の人生観に大きな変化をあたえてくれました。

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社会は自分たちの手にある

帰国後、世界一周と現実のギャップから、もぬけの殻になっていた私に
、NGOピースボートスタッフのお誘いが舞い込みました。

給料激安だったので悩みましたが、
もう、この人生を後ろに戻したくないと決意。
スーツケースに全荷物と希望をつめて、地元を離れNGOピースボートのスタッフに迎えていただきました。

スタッフとして巡る世界は、相変わらず魅力に溢れていました。
中東からアフリカ、北欧や南米、そして南極など、どこを切り取ってもひとつとして違う世界は地球は、とても豊かでした。

いっぽうで、世界中で苦しみを抱えて生活している人たちにも出会いました。

パレスチナ難民キャンプ
モロッコの孤児院
フランスの移民
原爆や放射能の被害を受けた方々
アラブの春で仕事を失った人たち

そして足元を見れば、日本でも多くの同世代が、いろんな思いを胸に抱えていました。
私は自身の経験から寝る間も惜しみ、彼ら世界一周に行くお手伝いをさせてもらいました。

どこひとつ同じがない”違い”があふれる世界と人を知ることで、異文化、他人そして、他人と違う自分を受け入れてほしい。

こんな思いで彼らと接し、また帰国した彼ら話すたびに、人の心、意識はこんなに変化するんだと確信していきました。

人の心が変われば、社会って変わるんちゃう。

かつて、人生に絶望すら感じていた私は
その社会に胸躍らせ
いつからか社会は自分たちの手にある、と思っていました。

気づけばNGOピースボートで6年間働いていました。

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(洋上で、乗船者のみんなに祝ってもらった27歳の誕生日)

この子たちを世の光に

2019年9月、
ついに出会います。

一般社団法人シェアリングエコノミー協会で事業開発部長としてやる気に満ち満ち溢れていた仕事帰り。
少しだけ活動をお手伝いしていたNPO Get in touchのチャットグループに代表からメッセージが入っていました。

「おすすめのアート展!現代 アウトサイダーアート リアル

その展覧会はクリックするとひとめでわかる、障害がある方が描いた作品の展覧会。

しかし、オランダのゴッホ美術館で本物の「ヒマワリ」を前にしても、
世界三大美術館の一つロシアのサンクトペテルブルクにあるエルミタージュ美術館でも、
これっぽちも興味を示せない、自他ともに認めるアート音痴の私は、

「僕もアウトサイダーやからな〜。どれどれ。」
くらいの安易な気持ちで、帰り道に寄りました。

アートって「これ、どう思う。」って聞かれて、崇高そうな返しをしなきゃいけない雰囲気が、
ボウリングで投げ終わった振り返りざまに、ひとボケ入れなあかん、みたいな強制感と似てて苦手でした。

しかし、この固定概念は、アート展に足を踏み入れた瞬間に、すべて消し飛びました。

正直、なにかよくわからへん、異彩を放つ作品たち。

「お前、まさか、世界を知った気になってたやろ。」
とでも語りかけてくるように、私の価値観を揺さぶりました。

揺さぶられすぎて、呼吸すら忘れた私は、すべての作品を写真と目に焼き付け、奥へ奥へと進みます。

そして、メインホールに展示されていた、一人の異彩が描く作品たちに圧倒されました。

冗談ぬきに、エジプトでピラミッドを真下から見上げたときより衝撃的でした。

ディスクトップ 2

これはいったい、どんな作品なのか。
作家は誰なのか。
おそるおそるキャプションに目を向け、また衝撃。

作家:岡元俊雄
題名:「男の人」「女の人」「男の人」

え?
題名、どういうこと!?

死に物狂いでキャプションのQRコードを読み取ると、作家の岡元俊雄さんがこう紹介されていました。

モチーフ全体を見ながら素早く筆を走らせ全体像を描き上げると、描いた線上を流れに添って何度も何度も塗り重ねる。飛び散った墨汁の滴や擦れ合わさった線が絵に躍動感をあたえていく。いつも、ひとりお気に入りの音楽を聴きながら、寝転がり肩肘付いて描く様が、彼のスタイルである

寝転がりながら肩肘付いて描く様が、彼のスタイル、、、

やられました。
最高すぎて。
常識、普通、当たり前、固定概念、先入観などは、跡形もなく打ち砕かれました。

なのに晴れやか。

まさに異彩。

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そして、横を振り向くと他の異彩の作品とともに、この一言

この子らを世の光に
糸賀 一雄

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これは社会の光や。

私は外に出るなり「アウトサイダーアート」「障害のある方のアート」など検索。

そこにあらわれたのが、創業一年目のへラルボニー。
そして、今も変わらないMissionの「異彩を放て」。
心奪われました。

興奮状態の私は、チャットグループにへラルボニーのHPリンクをはり
「どえらいモノを発見しました!」
とメッセージ。

すると、すぐに代表がこうリアクションしてくれました。

「へラルボニーの松田兄弟、仲良しよ。ふたりに予定聞いてみるから、4人でご飯行こうか!」


もう、運命やん。


そして、忘れもしない2019年10月29日。
松田兄弟とNPOの代表、4人でご飯を食べに行き、その人柄と描く未来に心底惚れました。

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(ヘラルボニーとつなげてくれたらGet in touch の東ちづるさんと松田兄弟との会食での一枚)

世界はもっと豊かで、人はもっと優しい

“普通”じゃない、ということ。
それは同時に、可能性だと思う。

これはへラルボニーのミッションの一文です。
私はこれを心から信じてやみません。

とにかく、生きづらかったです。

普通になれず、常識と自分とのギャップに苦しみ
社会から必要とされてないと絶望し
世界のたくさんの苦しみと向き合いました。

それでも、世界はもっと豊かで、人はもっと優しいと知っています。

私はアートや、アートがアパレルなどのプロダクトになることに、こだわりはありません。

こだわっているのは普通、常識、先入観、固定観念、カテゴライズなど
社会の偏見で、障害のあるなしに関係なくひとり1人の個性、可能性を埋もれさせない、その一点です。

障害のある方のアート、個性は私にもあるこれらの偏見を、豊かで優しい気持ちに変えてくれる光です。

人って可能性にみちみち溢れています。

“普通”じゃない、ということ。
それは同時に、可能性だと思う。

異彩の光で、誰もが優しく豊かと感じられる社会を実現します。
ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします。

異彩を、放て。

岡元さん

※先日、岡元さんに入社の挨拶に行ってきました。片手には僕の名刺。裏はもちろん岡元さんのアート


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