『旧修辞学』で選挙SNS戦略を読む
兵庫県知事に斎藤元彦氏が再選されました。その後もドタバタが続きますが、極めつけは、
実はわたしもPR会社に在籍していたことがあります。まだSNSの黎明期でしたので、いまのようなネット戦略を企画立案したことはありませんが、そうした問題以前に、「PR会社の立ち位置がわかってない」という一言につきます。
PR会社の活動はクライアントから対価を得て行うもので無償のボランティアではありません。ネット対策が無料でできるはずがありませんし、後づけで何を言っても通用しません。したがってこの活動が事実なら、斎藤知事の公選法違反容疑の疑いが極めて高いものになります。こうした活動を自らネットに公表することは、クライアントの違法行為を公することと同じです。そのことに気づかないならあまりにも無知ですし、なにかもっと他に大きな理由があるのかも知れません。本件については捜査機関が動く可能性が高いので、経緯を見守りたいと思います。
1.鬱屈した負のエネルギーを蓄積するSNS
ここから本題です。
今回の兵庫県知事選挙も、あるいは米国の大統領選挙でもSNSの力について言及した解説が目立ちます。確かにその通りだと感じるものもあるのですが、どこか表面的理解というか、実際の選挙に見られるような動的な「エネルギー」の存在を感じさせる分析はほとんどないのです。
そのことを考え始めたのは、この本を読んでからです。
ホックシールドの本を読んで、今回のトランプ再選の原動力は、右派共和党支持者の「鬱屈したエネルギー」が理念を訴えた民主党支持者を上回ったからだと改めて感じました。そして、このエネルギーは米国だけのものではなく、東京都知事選における石丸現象、衆議院選挙の玉木現象、そしてこの斎藤現象ともつながるものでしょう。
そして、このエネルギーはリアルな政治空間だけでなく、SNSとも極めて親和性が高いとわたしは考えています。
それはなぜか? ということを、『旧修辞学』(ロラン・バルト、沢崎浩平訳、みすず書房)を読んでいて、「ああそうか!」と感じるところがあったので、ここで紹介したいと思います。
なぜこの本を手に取ったかというと、
この本も大変興味深い本で、論理的思考というのは西洋形の論理学に基づくものだけではなく、レトリック、科学、哲学など、それぞれの目的に沿った「論理的思考」が存在するということを説いています。この本の序章「西洋の思考パターン」でバルトの『旧修辞学』が参考文献として挙げられており、バルトに依拠したと思われる記述が多かったからです。
実はバルトをちゃんと読んだことはなかった(熱烈な読者が身近にいたので)のですが、この『旧修辞学』はほぼアリストテレスの批判的読解をベースにしていると思われ、アリストテレスはやはり「万学の祖」といわれるだけあるなあと。
2.修辞学とはなにか
この「修辞学」という言葉ですが、訳者あとがきの次のような記述があります。
rhétoriqueという仏語は文字によって書かれたものか否かを問わない「表現」と言っていいと思いますが、「修辞」というと言葉を上手く(美しく)使うという意味が強く、やや否定的なニュアンスも伴いますね。
SNSで飛び交う言葉が、もはや上手とも美しいともいえず、情報というよりもノイズに近いものだとわたしはよく感じます。こうした状況をバルトがアリストテレスに仮託して次のようにいっています。
3.床屋談義の修辞学
ここで「程度を落とした」といっているのは、哲学のレベルで要求される厳密な論理学ではなく、世論の常識に沿うようなレベルということです。日本語で言うと「床屋談義」といったイメージでしょうか。
「SNSに議論は馴染まない」ということが言われますが、これはつまり話者によって求めている「修辞学」が異なっていることが明示されていないからだといえるでしょう。床屋談義の相手に論理学的に矛盾を追及しても感情的な対立を生むだけで議論の深堀りも合意の形成も不可能です。こうした前提を無視して議論をするものだから攻撃的な言葉の応酬であり意味のないノイズのやり取りになってしまうのでしょう。
では、こうしたノイズのやり取り、不毛な議論はまったく無価値なのか? これはわたしの仮説ですが、議論の不毛さ、フラストレーションがマグマとなって選挙結果を左右するような「動的なエネルギー」を生んでいるのではないか? と思えてならないのです。つまりSNSが生み出しているのは共感や応援ではなく反感と攻撃であったのではないか。
4.真実らしくない可能なことより、可能でない真実らしいことを
この記述はネットでポピュリストが主張するフェイクニュースを勧めているようにさえ見えます。ここでいいたいのは倫理的な問題ではなく、あくまで「修辞」(弁論を手段として相手を論破すること)上の技術としてですが、政治家が選挙前に票欲しさに現実的に不可能な公約を掲げるのは、修辞学としては認められても政治学的は正しくないことなので認められません。こうした状況を理解するために、修辞(弁論)の内容を、①発信者、②受信者、③情報そのものと分け、それぞれについて適切な方法で検討することを、以下の文章が教えてくれます。
ここで注意したいと私が感じるのは、「弁論者が構想するかぎりの論証」と「受信者が受け取る限りの論証」とのズレがあることです。話者が綿密に構築した弁論であっても、それを受信者が受け取りたいと思わない限り正しく伝わらない。
どんなに話者が有権者全体の利益になるはずの政策を訴えても、聞き手が聞きたいのは自分だけの利益であったとすれば、その政策は伝わらない。社会的不安が高まる(つまり不満のエネルギーが高い)ときにリベラルの政策が伝わりにくく、保守やポピュリズムが拡大しやすい理由がここにあるとわたしは考えています。
5.エンテューメーマとはなにか
「エンテューメーマ」という見慣れない言葉が出てきましたが、この言葉が『旧修辞学』のキーワードのひとつでしょう。エンテューメーマとは三段論法のうち、科学的な証明ではなく、人を説得するための蓋然的(さも起こりそうなことがら)で大衆にも扱うことができる推論とのこと。これでも何を言ってるかイメージできないのですが、「説得の技術である三段論法のうちで「見世物」、つまり見てわかるような説得の方法」と理解しておけば良さそうです。ということは、先の「受け取りたい情報しか受け取らない傾向を持つ「『受信者』は、見て分かる情報に説得されやすい」ということになります。
SNSではショート動画が大量に拡散され、それが票につながったと指摘されていますが、その理由はこのことからも説明できそうです。
6.大衆が参加できる隙間をあえて残す
このあたりの記述は、実に現代的で、バルトの彗眼が遺憾なく発揮された部分だとも思います。右派の論理的には稚拙な弁論がネットのなかでは支持され拡大していくのに比較して左派の正論に根ざした弁論がいまひとつ広がりを欠く理由が示されていると言えそうです。