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変人の回顧録 幼稚園編①年少に混ぜられた話

先週挙げた自己紹介の続きをいまだに書いている途中ですが、

思うところがあって、タカハシ変人が幼少期に体験した出来事を話そうと思います。

 私は小学校に入学する前、幼稚園に通っていました。

満3歳から入園できるクラスを年少、一つ上が年中、最終学年の年長とありますが、私は年中からの通園でした。

そのころから多少物心がついていた当時の私は、たかが3、4歳の園児といえど、年小から進級してきた子と年中から入園してきた私たちとでは少し違った雰囲気を感じて、色々な面で遅れを感じていました。

さらに、生まれながらの内気な性格も相まって、自分の素直な心情をまわりに上手く伝えられない。まわりのみんなには上手く出来ている(という風に見えてました)ということは、私しか出来ていないということでそれは恥ずかしいことなんだと常々思っていました。

そうしたなかである日、外で運動をする時間がありました。

前半はクラスのみんな(多分運動会の練習)で過ごしたあと、

後半は自由時間でした。

わたしも周りに合わせて遊具などで遊んでいたいたところに突然、

とてつもない便意が襲ってきました。

普通の子なら、授業中に尿意や便意を催したら先生に許可をもらってすんなりトイレに向かうでしょう。

しかし、当時の私には、そんなことすら難しい。普段は周りの子たちがトイレに行くタイミングで後ろにさりげなく付いていくほど、先生にトイレへ行く許可をもらうのが恥ずかしいかった。

そんなシャイな私が他の子たちと遊んでいる先生に一人で便意を伝えることも、また周囲に「タカハシがトイレに行く」と思われるのが到底耐えれるものではありませんでした。

ここまで読んで、結構よくあると思った方も多いでしょうが、

ここからです。

そして、多分10分近くは我慢してたでしょうが、

そろそろ運動の時間が終わりに迫っていました。

結局は先生にも他の園児たちにもタカハシがトイレに行きたがってることが伝わる。当時の私はパニックになっていました。

そんな中で私が下した決断は、


グラウンドの隅っこで用を足すという行為でした。

その場では事なきを得ましたが、当然すぐに先生たちにバレました。

その時の感情は頭が真っ白になっていたのでしょう。

よく覚えていません。

気付いた時には教室の隅で担任の先生に問い詰められていました

「どうしてこんなことしたの」「何でこんなことをしたの」

先生はすごい剣幕で問い詰めますが、私は声が出ないように泣くばかり。

当時の私でもわかってはいました。

「ごめんなさい」と一言、謝ればいいことを。

しかし、家族以外の他人と喧嘩をしたことがない。

怒られないように目立たないように周囲と接してきた

当時4歳の私は、他人に「謝る」がすごく怖かったのです。

そんな私と対峙していた先生は埒が明かないと私の腕を引っ張りどこかへ連れて行きます。


そこは、年少の教室でした。

年少の先生に事情を話す姿と睨むように見つめる私にも

年少のクラスの園児たちが私のことをまじまじと見つめている視線を感じました。その後も先生と私のやり取りは一方的に続きました。

「何にもしゃべらない子はねえ、赤ちゃんなのよ」

「もう先生、なんにも知りませんよ」

年少の園児たちは粛々と帰宅するために「帰りの会」を進めていきます。

そして、年少の子たちがぞろぞろと教室を去ったぐらいのときに

私は先生に謝りました。

どんな言葉を言ったのかは、覚えていません。

しかし、書いてあるような景色、音、そいてみんなの表情は20年たった今も鮮明に覚えてます。


私は、このNOTEをいつかは書こうと思っていました。

しかし、もう少し、雑多なあれこれを書いたのちに、

私の原体験、として書こうとしていました。

しかし、とあるニュースを目にして考えが変わりました。


【精神的苦痛】宿題忘れ1年生の教室でやらせる、小3担任の指導を体罰と認定 和歌山 


この記事を早朝に目にしたとき、

「ああ、これは体罰になるのか」とどこか心が軽くなりました。

もちろん、グラウンドの隅で用を足すことも、それについて謝罪しないことも自分が全面的に悪いという思いは当時も今も変わりません。

しかし、この記憶をある種のトラウマのように抱えていた時期もあったのは確かです。(今はこうしてネタに出来ています)


昨今はいたるところで、

間違った行いをする人を諸手を挙げて責め立てるようなやりとりを

いたる所で目にします。

間違いを犯すこと。逆に間違いを責めること。

これはだれにで起こりえますし、ある種仕方ないとも言えます。

しかし、だれかを責めたあと、その後のことを一瞬でも考えられないでしょうか

そのあとに起こりうる事象を考えられていないとき、はたしてその「強い言葉」は誰のための言葉になっているでしょうか

こういったやりとりは、これまでも散々繰り返されてきたことでしょう

しかし、どれだけ議論を重ねても、間違った言動は少なくはなるでしょうが

いっさいなくなる、ということもまた、あり得ないと私は思います。


だからこそ、私はしつこいくらいにこの問いを続けます。

「その言葉は誰のためですか?」




追伸。ニュースの生徒が今回のことを前向きに思い出せる日を願っています。


次回は自己紹介に戻るか、好きな作品を語るかします。



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